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五色沼・蔵王・立石寺を巡る旅 [2008/6/28〜29]



五色沼から蔵王の御釜、翌日に立石寺、松島を巡り、瑞巌寺によるバスツアーに参加しました。
蔵王の御釜は、スキーの時に凍り付いている所しか見ておらず、松島も外から眺めただけです。
五色沼や立石寺も行った事がなかったので、もっけの幸いでした。
さらに加えて、サクランボ狩りが付いています、というか、こちらがメインかな?
そのため、ゆっくりとできそうなこのツアーに参加することにしました。



五色沼・蔵王・立石寺を巡る旅
インデックス


五色沼

五色沼の正式名は「五色沼湖沼群」で、大小30余りの湖沼などの総称です。
磐梯山の1888年(明治21年)の噴火、山体崩壊により川がせき止められ、数百の湖沼が形成されました。
この時できた大きな秋元湖、小野川湖、桧原湖に挟まれるように五色沼湖沼群があります。
五色沼は、毘沙門沼・赤沼・みどろ沼・竜沼・弁天沼・るり沼・青沼・柳沼などの数多くの湖沼より成ります。
ここには全長約3.6kmの五色沼自然探勝路が整備されており、10数個の沼を観察できます。
沼によって、エメラルドグリーン、コバルトブルー、ターコイズブルーなど、微妙に色が異なります。
これは、粘土準鉱物であるアロフェンの微粒子が大量に含まれていて、これが太陽光を反射することによるものとのこと。
その反射の度合いが、火山活動によって生じる硫化水素が溶け込んだ水の酸性度合などで異なるのも要因です。
さらに、沈着した酸化鉄の赤、湖底のコケ類などによっても、色合いが異なってきます。
また、同じ沼でも、太陽光の入射角度で反射する光の量が異なってくるので、季節や時刻によっても変化します。
ということで、行ってみないとどのような色合いを見せてくれるのか分からないのが、五色沼ということですね。

 

 

五色沼自然探勝路で、最初に出会えるのは最も大きな毘沙門沼です。
ここでは手漕ぎボートがあり、時間があればゆっくりと青い沼を楽しめますね。
残念ながら時間がないので、沼の周りを歩いて回りましたが、光が当たるとエメラルドグリーンになります。
上段の2枚は、ターコイズブルーのような色合いですが、下段左はエメラルドグリーンになっています。

 

次に現れたのは赤沼です。岸辺の草の根元が茶色くなっていますが、酸化鉄の沈着でしょうか。
沼の水はエメラルドグリーンですが、上記の毘沙門沼より明るい色です。

 

次に現れたのはみどろ沼(深泥沼と書くようです)です。この沼は複数の色を持つ珍しい沼です。
左の写真の奥はターコイズブルーのような色ですが、手前はイエローグリーンです。
おそらく、極浅いのでこのような色なのでしょうが、深いと左のようにライトグリーンになります。
この沼は、ライトグリーンの部分に湧水があり、ターコイズブルーの部分へ湧水が流れ込んでいます。
そのため湧水部分はPHが低く、それが水の色の違いとなっているものと思われるとのこと。

 

みどろ沼を後にして滝沼の方に向かっているときに見られた沢です。
左の方は流れがほとんどない水たまりのような感じですが、奥から手前にゆっくりと流れているようです。
弁天沼に近い所で見かけたのが右の沢で、かなり速い流れがありました。
手前の岩の上には、翅が赤いニホンカワトンボ(詳細はこちら)が止まっていました。唯一見かけた昆虫です。

 

弁天沼も比較的大きな沼で、今までの沼よりも青味の強いセーフカラーでした。
今日見た沼の中では最も青味が強い沼で、酸性が強く青く透明度の高い青沼やるり沼の湖沼群に属します。

 

弁天沼を後にして、るり沼に向かっている途中で見かけた沢です。
沢の底が、きれいなエメラルドグリーンになっています。左の写真では、枯木にも同じ色がついています。
ここの水に大量に含まれている粘土準鉱物であるアロフェンが堆積しているのかもしれません。

 

弁天沼から少し進んだ所には、同じ湖沼群に属するるり沼があります。
弁天沼と同じセーフカラーですが、透明感のある弁天沼に対して、少し白い濁りのある色をしています。
ただ、波がなく、景色がきれいに写り込んで、東山魁夷画伯の「白い馬の見える風景」が思い出されます。

 

青沼を過ぎて、最後に見えてきたのが柳沼(やぎぬま)です。
この沼は、他の湖沼と異なり弱酸性でほぼ無色です。
ただ、プランクトンが多いので、見る角度によって緑がかって見えるとのこと。
写真で、奥の方が緑がかっているのに、手前になるとそれが無くなるは、そのためかもしれません。




上杉神社

上杉(うえすぎ)神社は、山形県米沢市 松が岬公園(米沢城址)にある、上杉謙信を祀る神社です。
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつです。
1578年(天正6年)、上杉謙信が越後春日山城で急死した際、遺骸は城内に仏式で祭られました。
次代の上杉景勝が1601年(慶長6年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷されました。
明治に入って神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移されました。
その守護のために法音寺も廟所前に移転し、仏式で祭られていたものを神式で祀ることとなり、
併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山も合祀して、山形県社「上杉神社」となりました。
1876年(明治9年)5月21日に、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座されました。
1902年(明治35年)4月26日に別格官幣社となり、この時鷹山は新摂社「松岬神社」に遷されました。
1919年(大正8年)の大火で全焼し、現在のものは伊東忠太の設計で再建されたものです。

 

五色沼を後にして米沢市に入り、昼食後、上杉神社に参拝しました。
石造りの立派な一ノ鳥居の奥に、木製のもう1つの二ノ鳥居があり、その奥に神門が見えています。

 

上杉神社の神門です。左の写真では、神門の後ろに拝殿が見えています。
神門の柱や梁には、消えかかったものから真新しいものまで、たくさんの千社札が張られていました。

 

拝殿に着いたとき、ちょうど結婚式が終わって、花嫁さんが出てきたところでした。初々しいですね。
右は、結婚式の関係者が引き上げて、最後に神官の方が出て行かれる所です。




蔵王の御釜

蔵王の御釜は、蔵王連峰の中央部、最も高い所にある火口湖で、五色沼とも呼ばれます。
周囲長はは1080m、面積0.9平方km、最大水深27.6m、水面は標高1,550mです。
御釜はカルデラの中にあるのですが、外輪山の東側が崩壊しています。
そのため、駐車場のある南側の刈田岳(標高1,758m)から西側の馬の背を経て、
北側のロバの耳岩辺りまで、Cの字型に外輪山が残っています。
御釜の東側には五色岳(標高1,674m)という中央火口丘があり、その南側に旧火口があります。
歴史的にいうと、山体崩壊は約3万年前に起こり、その後、約2000年前から五色岳が形成されました。
その五色岳には、旧火口と御釜の2つの火口があり、約600年前に活動が御釜に移ったと推定されています。
直近の大きな噴火は1895年(明治28年)の御釜の水蒸気爆発で、爆発は5回発生しています。
1940年(昭和15年)にも小規模な水蒸気爆発が観測されています。
現在も火山活動は続いており、2018年9月の調査で、御釜の湖底に噴気孔らしきものが発見されています。
また、現在は解除されていますが、2018年1月30日には蔵王山に噴火警戒レベル2が発表されています。



米沢市を後にして、蔵王エコーライン、蔵王ハイラインと御釜目指してひたすら上っていきます。
着いたのは外輪山の南側にある苅田岳の駐車場。ここから少し歩くと御釜が見えてきます。
バスで上ってくるときには雲の中だったのですが、山頂付近には雲はなく、御釜が良く見えます。
快晴とはいきませんでしたが、御釜はフォレストグリーンの渋い姿を見せていました。
ここからは、外輪山の馬の背、御釜の背後に五色岳、その右に旧火口が見えていました。
6月の末でしたが、馬の背の斜面には、まだ、所々に雪渓が白く残っていました。

 

御釜の背後にある五色岳は、御釜の水蒸気爆発で大きく削り取られ、急峻な崖になっています。
この崖は、五色岳が火山砂などの火山砕屑物が層状に重なったスコリア丘であることを見せてくれています。
右の写真は、旧火口のさらに右側の様子ですが、天気が良ければ遠くに仙台平野方面が望めます。

 

少し斜面を下って行くと雪渓が現れました。左は、その雪渓とお釜のツーショットです。
お釜をさらにアップで撮ったのが右の写真です。水面の色が一様ではないことが分かります。

この後、お釜を後にして、今日の宿泊地である蔵王温泉に向かいました。




立石寺

立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の寺院で、山号は宝珠山、本尊は薬師如来です。
山寺(やまでら)の通称で親しまれていますが、古くは「りゅうしゃくじ」と称していました。
正式な寺号は、宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)です。
立石寺の創建は、寺伝では860年(貞観2年)に、清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされています。
しかし、創建の正確な時期や事情については諸説あり、明確ではありません。

 

翌日の最初の訪問先は、立石寺です。山寺の名の通り、奥の院までは長い石段の登りです。
この石段を数えた方がいて、なんと、1050段あるそうです。
四国の金毘羅宮の1368段(ヒーヒー言いながら登りました)には及びませんが、かなりハードな登りです。

 

石段は自然に沿って作られており、その途中にあるのが四寸道です。
最も狭い所で幅は約14cmとなっており、それが4寸(12cm)道の由来ですが、昔はもっと狭かった?
左の写真で、大きな岩が飛び出している所が4寸道で、右の拡大写真のように一人がやっと通れる狭さです。



もう1つがこのせみ塚です。
有名な芭蕉翁の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」をしたためた短冊を埋めて、石の塚を立てたものです。
芭蕉が山寺を訪ねてから62年後、山形県の俳人壷中(こちゅう)らが1751年に建立したものだそうです。

 

石段の途中から見られる百丈岩で、この上に納経堂や開山堂、五大堂が建っています。
ほとんど垂直に切り立った崖で、その表面には不規則な穴が開いています。

 

せみ塚の先、道の右側に直立する岸壁が弥陀洞(みだほら)です。
その姿が阿弥陀如来に似ていることから、「丈六の阿弥陀如来」(4.6m)と呼ばれているそうです。

 

弥陀洞の先、奥の院の手前にその山門である仁王門があります。
1848年(嘉永元年)に再建された門で、左右に運慶の弟子たちの作といわれる仁王尊像が安置されています。
その傍らには、高さ45cmの十王尊が祀られているそうですが、見損ねました。

 

仁王門を過ぎて上っていくと、正面に見えるのが奥之院です。
正面右側の古いお堂が如法堂で、本尊は慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来です。
堂内には比叡山延暦寺より移され、分火された不滅の常灯が灯されているとのこと。
左側は大仏殿で、高さ5mの金色の阿弥陀如来像が安置され、日々、卒塔婆供養が行われているそうです。
右の写真に見られる燈籠は青銅製の金燈籠で、金華山、金比羅山の燈籠と共に日本三大燈籠と呼ばれています。

 

奥の院について振り返ると、右手に開山堂とその左手に小さな納経堂が見えます。
開山堂は、開山・慈覚大師の木造の尊像が安置されているお堂で、朝夕、食飯と香を供えているそうです。
納経堂は、写経を収めるお堂で、百丈岩の入定窟の頂に建っていて、山内で最も古い建物で、県指定文化財です。

 

五大堂は、開山堂の右手を上った所にあり、五大明王を祀って天下泰平を祈る道場です。
この五大堂は、この立石寺随一の展望台でもあり、右の写真のように眼下が一望できます。

この後、立石寺を後にして、いよいよサクランボ狩りです。



サクランボ狩り

お目当てのサクランボ狩りは、天童市のやまり果樹園さんでした。
立石寺からは30分程の所で、果樹園には何種類かのサクランボが植えられているとのこと。
この時期に食べ頃なのは、佐藤錦とか高砂、紅秀峰で、ナポレオンはもう少し後になるようでした。
果樹園に入ると、たわわにサクランボが実り、真っ赤に熟していました。
ただ、樹によって甘さや酸味が異なるそうで、いろいろ試してほしいとのこと。

 



ということで、用意された脚立に上って、片っ端から味見開始。
良さげな樹に行き当ったところで、上れない女性陣に取ったサクランボを渡しつつ、自分も食べまくりです。
園の方の話では、いくつ食べられるか数えた方がいて、80数個だったとの事でした。
女性陣でそこまで食べた方はいないと思いますが、斯く言う私は、数えていませんが同じくらいは食べたでしょう。
後で調べてみると、サクランボにはソルビトールという下剤に使われる成分が含まれているとのこと。
その含有量から推測して、100粒くらいまでにしておくのが無難なようです。

いい加減、お腹が一杯なのですが、この後昼食を取り、松島に向かいました。




松島めぐり

松島とは、日本三景の1つに数えられる宮城県の松島湾内外にある諸島のことです。
松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸です。
それがさらに進んで沈降地形となり、溺れ谷に海水が入り込み山頂が島として残ったのが、今の松島です。
この地域の大部分の地層は非常に脆い岩質である第三紀層の凝灰岩、砂岩、礫岩などで、侵食を受けやすいです。
そのため、波に洗われる海面近くが大きくえぐられた形状の岩礁も多く見られます。
これら小さな岩礁を島とするか否かは、明確な基準がないため、松島の島の数は文献等によって異なります。
そこで、昭和40年代頃に調査が行われ、260余りという数が松島の統一見解とされています。
松島は脆い岩質のため、今日でも徐々に変化し続けており、東日本大震災の地震と津波により崩落した所もあります。

 

松島に着いて、観光船に乗る前に訪れたのが、瑞巌寺の五大堂です。
この五大堂は、海岸に近い小島の上に建っており、小さな橋を渡っていく必要があります。
その最初の橋が左の写真の橋です。この橋は欄干は赤いですが、普通の橋です。
この後、同じような橋を渡るのですが、右写真のようにすかし橋と言われる橋げたの間から海が見える橋です。
最初の橋は、橋げたの上全面が板で覆われていますが、すかし橋では板が2枚しかなく、隙間があるのです。

 

左の写真は、そのすかし橋からみた海の様子で、五大堂へ行く際に足元を見て気を引き締めるためと言われています。
右が五大堂で、白く点々と雪のように見えるのは、雨粒です。時折、かなり強く降っていました。

伝承によれば807年(大同2年)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされています。
その後、円仁(慈覚大師)が瑞巌寺の前身である延福寺を創建した際に仏堂を建立し、五大明王像が安置されました。
五大明王像は、国の重要文化財の指定を受けたケヤキ材の一木造の秘仏で、33年に1回、開扉されるそうです。
現在のお堂は、1604年(慶長9年)に伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建したもので、国の重要文化財です。

 

観光船は、五大堂の近くから出港します。そのため、行きと帰りに五大堂を海から見ることができます。
その出港時の写真が左の方ですが、すごい数のウミネコが観光船を追いかけてきます。
観光客が餌をくれるのを知っているので、目の前まで近づいてきます(今は餌やりは禁止だそうです)。
そのような状況なので、左の写真のように出港時にはウミネコを避けて写真を撮るのは不可能な状態でした。
しかし、入港時にはかなり減っていましたので、右の写真のように落ち着いて撮ることができました。

 
 <双子島(ふたごじま)[亀島と鯨島]>          <箕輪島(みのわじま)と兜島(かぶとじま)>
双子島は、細長い鮫島と丸い亀島が仲良く並んでいる様が、双子のようなことから名付けられました。
兜島は、見る方向によって烏帽子兜に似ていることからの命名だそうです。

 
<鎧島(よろいじま)と在城島(ざいじょうじま)>             <鍋島(なべじま)>        .
鎧島も、戦国武将の武具、鎧の肩掛け「かたびら」に似ているところからの命名とのこと。
在城島は、伊達政宗が月見の宴を開いた島と伝えられています。
そのとき、「このように見渡す限りの視界なれば落城の憂い無し」と言ったとか。
これを聞いた家臣が、城が無くとも在る城の島と言ったのが、島名の由来だそうです。
鍋島は、鍋を伏せたように見えるのが島名の由来ですが、ユリが自生しているため「ユリ島」とも呼ばています。

 
 <仁王島(におうじま)>                   <小藻根島(こもねじま)>
仁王島は、浸食作用によってできた自然の造形の傑作です。
中間の軟弱な集塊岩の部分が浸食され、上部の泥岩の部分が頭のように残ったものです。
昭和44年の地震の後、補強工事を行い、その上に集塊岩、泥板岩、凝灰岩等を砕いて吹き付けてあったそうです。
その後の補修で、今の姿になったようですが、コンクリート然とした首の部分が痛々しいですね。
そのおかげで、東日本大震災の地震と津波でも頭部が落ちることはなかったとの事(ひび割れはできたようです)。
小藻根島は、島の南端にある高さ5mほどの長命穴を舟で通ると長生きすると言われていました。
その長命穴ですが、東日本大震災の地震と津波で完全に崩落してしまったとのこと。
この写真は2008年に撮ったものですので、今はこの姿を見ることはできません。

 
<蓬莱島(ほうらいじま)>                     <鐘島(かねじま)>    .
蓬莱島は、桂島より切り離されている小さな島で、中国の蓬莱山によく似ていることからの命名です。
といっても、どの島か分かりますか。中央、くの字に折れ曲がった小さな島(岩?)が蓬莱島です。
鐘島は、洞門が4つもある島で、波が洞門に打ち寄せる音が、鐘のように響くことによる命名とのこと。

 
 <千貫島(せんがんじま)>                 <千貫島(せんがんじま)/拡大>
千貫島は、伊達政宗が湾内を遊覧した際、この島の形の良さに感銘し、
「この島を代の館に運ぶものあらば銭千貫をつかわす」と言ったのが、島名の由来とか。
かなり遠くだったので小さく写っており、なんだか良くわからないので、強拡大してみました。
粒子は荒れてしまいましたが、島の形は何とか分かるようになりました。松が1本、生えているのも分かります。

 
  <毘沙門島(びしゃもんじま)>              <沖の化粧島(おきのけしょうじま)>
毘沙門島以外にも、近くには大黒島、恵比寿島といった七福神の名を冠した島があります。
沖の化粧島は比較的小さい島ですが、頂部に何本かの木が見られます。
ただ、縦に大きな亀裂が走り、いくつか崩落した後が見られますので、この姿形を何時まで見られるのでしょう。

以上は名前の分かった島々ですが、以下のように名前の分からない島もたくさんありました。
特徴のある島でないと、写真からだけで名前を探すのはちょっと難しかったです。

 

 

 

 

 
<軍艦島?>                                   .
 



港が近づいてきたところで、双子島の近くで出港していく観光船とすれ違いました。
観光船の船尾付近にはウミネコがたくさん飛び交っています。
きっと、出港した時はこんな感じで、ウミネコがまとわり付いていたのでしょう。




瑞巌寺

瑞巌寺は、現在は臨済宗妙心寺派に属しています。
正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)」といいます。
828年(天長5年)に比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅で、松島に来て建立しました。
この寺は延暦寺に匹敵する寺として延福寺と命名され、平泉の藤原氏の外護を受けました。
この天台宗延福寺は鎌倉時代中期に、開創以来28代約400年の歴史を閉じました。
取って代わったのは、法身禅師の開山とされる円福寺ですが、正式な開創年は不明です。
その勢力をを岩手県南部にまで広げましたが、戦国時代を経て次第に衰退し、妙心寺派に属するようになりました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は神社仏閣の造営に注力し、瑞巌寺造営には特に注力しました。
丸4年の歳月を費やし、1609年(慶長14年)に完成しています。
伊達家の厚い庇護を受けていましたが、明治維新の後、廃仏毀釈、版籍奉還などにより窮乏し、
諸寺院が廃絶するなどする中、瑞巌寺は何とか維持されていました。
1876年(明治9年)に明治天皇の東北巡幸の際、下賜金があって、それが復興の契機となりました。
現在、本堂、御成玄関、庫裡、回廊は国宝に、御成門、中門、太鼓塀は国の重要文化財に指定されています。

 

総門は、1609年(慶長14年)に伊達政宗が建立し、平成16年に修復工事された、一間一戸袖塀つきの薬医門です。
掲げられている大額「桑海禅林」は、瑞巌寺105世天嶺性空の筆によるものです。
総門を入ると、この時には山道の両脇に杉の巨木が並び、見事な杉並木となっていました。
過去形なのは、東日本大震災の津波が参道に達し、その塩害がひどく、300本ほどが伐採されてしまったためです。
そのため、今は若い杉は植えられていますが、見る影もないほどに寂しい光景となってしまっているとのことです。

 

中門は、切妻造の柿葺(こけらぶき)の四脚門で、瑞巌寺の建物の中で唯一の柿葺となっています。
柿葺とは薄板を用いて葺いた屋根で、伊達政宗の命により用いられたと言われています。
なお、扁額「瑞巌円福禅寺」は瑞巌寺100世洞水東初の筆によるものです。
左の写真は参道側から、右の写真は本堂側から撮ったものです。参道側には、門の両脇に杉の巨木が植えられています。
一方、本堂側には、門の両脇に紅白の臥竜梅(本堂から見て左側が紅梅で右側が白梅)が植えられています。

※ 柿(かき)と「こけら」は、フォントによってはほとんど同じに見えますが、異なる漢字です。
ただ、こけらという漢字は、unicodeでないと表示されないので、ここでは柿の字で代用させていただきました。
※ 臥竜梅は水戸の弘道館にもあり、宮城刑務所内に残されている臥竜梅は国の天然記念物となっています。

 

中門をくぐると、目の前に入母屋造で平屋、本瓦葺の本堂があります。
南東に面した正面は幅39m、奥行きは25.2mで、1609年(慶長14年)に完成しています。
内部は、禅宗方丈様式に武家屋敷の書院を加えた10室の間取りで、東西と南に上縁・下縁が巡らされています。
その本堂の南西端にあるのが、天皇・皇族・藩主専用の玄関である御成玄関(おなりげんかん)です。
左の写真が本堂の正面で、右手に見えているのが紅梅の臥竜梅です。
右の写真は御成玄関の側面で、玄関は左手の見えていない面にあります。



本堂内部では、室中孔雀の間、仏間、文王の間と奥の上段の間、松の間などが見られますが、撮影禁止です。
本堂の三方を取り巻く上縁・下縁からは裏手の庭などを見ることができますが、それが上の写真です。

今回出会った野草

今回の旅行では、五色沼湖沼群を散策した時に、いろいろな野草や樹木に出会えました。
と言っても、初夏ですのでそれほど多くはありません。春であればもっと多いのではと思います。
蔵王の御釜では、可憐な花を付けたイワカガミに合えました。

下記の写真はその一部ですが、詳細に関しては、こちらに紹介させていただいています。

 
<ノイバラ>                       <ガマズミ>

 
<ツルアジサイ>                     <カンボク> .

 
<ダイコンソウ>                     <イワカガミ>








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