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萩・秋吉台・津和野を巡る旅 [2005/8/29〜30]



実家に帰省したついでに、中国地方をドライブすることになり、中国自動車道を経由していきました。
実家からだと萩までは6時間ほどかかります。最初に訪れたのは松陰神社です。
松下村塾、花月楼、吉田松陰幽囚ノ旧宅などを見学した後、宿泊先の越ケ浜に向かいました。
この日は水平線が見えていたので、浜まで出て、陽が沈むのを飽きずに眺めていました。

翌日は、萩城跡近くまで行って、萩八景遊覧船に乗りました。
橋本川を遡り、折り返して乗船場を通過し、海に出てから戻ってくるルートです。
40分程の船旅ですが、船からの眺めは、また、一味違います。
船を降りて、指月公園をぶらついた後、城下町の土塀などを見ながらブラブラと散歩しました。
萩市内で昼食を取り、次に向かったのは、ここから車で1時間ほどの秋芳洞、秋吉台です。
日本屈指の鍾乳洞は規模が大きく、最大の鍾乳石、黄金柱(こがねばしら)には圧倒されました。
途中、エレベーターで地上に出て、秋吉台のカルスト台地を眺めてきましたが、広いですね。
秋芳洞の見学が終わって、今日の宿泊先である山口市内に向かいました。

翌朝、次の目的地である津和野まで、中国自動車道で向かいます。1時間半ほどで到着。
津和野の街をブラブラと散歩です。有名な殿町の掘割をはじめ、あちらこちらをブラブラ。
お昼を取った後、岩国に向け出発。2時間弱で岩国の錦帯橋に到着。
運動代わりにブラブラして、山陽自動車道を使って実家に戻りましたが、4時間ほどで着きました。



萩・秋吉台・津和野を巡る旅
インデックス


松陰神社

松陰神社は、吉田松陰を祭神とする山口県萩市の神社で、1907年(明治40年)の創建。
1890年(明治23年)、松陰の実家に松陰の実兄が土蔵造りの小祠を建て、
松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡を神体として祀ったのが始まりです。
松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を1907年(明治40年)に請願しています。
その際、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿とし、県社に列格されました。
現在の社殿は、1955年(昭和30年)に新しく建てられたものです。
創建当時の土蔵造りの旧社殿は、松下村塾での門人を祭る末社・松門神社となっています。

境内には松下村塾、吉田松陰幽囚ノ旧宅、花月楼、吉田松陰歴史館などがあります。
2009年10月28日には、松陰没後150年を記念し、宝物殿「至誠館」が開館しています。

 

松陰神社入口左側の駐車場奥に、明治百年を記念して1968年(昭和43年)に建立された石碑があります。
中央に「薩長土連合密議乃處」(さっちょうどれんごうみつぎのところ)を大きく刻まれています。
その右側に「薩州・田上藤七、長州・久坂玄瑞、土州・坂本龍馬」と刻まれ、
左側には「文久二年一月、鈴木勘蔵宿之宿」と刻まれています。
右の写真は、入り口から少し入った所にある、石造りの立派な松陰神社の鳥居です。



鳥居をくぐり、参道を進んでいくと、左手にあるのがこの石碑です。
書かれているのは、「親思ふこころにまさる親ごごろけふの音づれ何ときくらん」。
1859年(安政6年)10月20日付けで家族に宛てた遺書の中で詠われた有名な和歌です。
1962年(昭和37年)に萩国際ライオンズクラブの承認を記念して奉納、建立されたものです。

 

花月楼(かげつろう)は、萩藩第7代藩主毛利重就が建てた江戸時代の茶室です。
左の写真の右手の方に大きな石灯篭があり、その根元にナツズイセンが1本だけ花を付けていました。
松下村塾出身の品川弥二郎が自邸内に保存していたものを、1959年(昭和34年)に神社境内に移築したものです。
この茶室は、表千家の家元、第7代如心斎の門人で江戸千家の元祖川上不白が献上した設計図が元になっています。

 

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、吉田松陰がが1857年(安政4年)に主宰した私塾です。
木造瓦葺き平屋建てで、当初からあった8畳間に、松陰が4畳半1間、3畳2間、土間などを増築しています。
当時からこの場所に建っていたもので、ここから明治維新を成し遂げた多くの人材が育っています。
2015年(平成27年)7月5日、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 

左は松下村塾の講義室です。吉田松陰の肖像画が床の間に掛けられ、隣に石膏像が置かれていました。
右は控の間です。その壁の一面に、松下村塾ゆかりの方々の肖像が掛けられていました。
左上から、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田松陰、前原一誠、木戸孝允、
山田顕義、品川弥二郎、野村靖、山県有朋、伊藤博文、
境二郎、飯田吉次郎、河北義次郎の13名で、上段中央に吉田松陰の肖像画が掛かっています。
なお、門下生の木戸孝允以外は、塾生になるそうです。

 

吉田松陰幽囚ノ旧宅(よしだしょういんゆうしゅうのきゅうたく)です。
吉田松陰の実家であり、杉家の旧宅で、当時からこの場所に建っていたそうです。
1955年(安政2年)12月に萩城下の野山獄より出牢し、右の写真の3畳半の1室に幽囚されました。
ここで家族などに対して講義が行われたのが、やがて松下村塾の教育に発展していったとのこと。
2015年(平成27年)7月5日、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 

松陰神社本社は、学問の神様として参拝客が訪れる神社で、拝殿にはたくさんの絵馬が掛けられています。
右の写真は、拝殿の右手の方に入った写真で、手前が拝殿、中央が本殿、右の小さいのは勧学堂です。
勧学堂には、吉田松陰の分霊が祀られており、元々は品川神社といわれ、品川弥二郎生誕地にあったものです。
後に、これを松陰神社境内に移築し、品川弥二郎命は松門神社に合祀されて、勧学堂と命名されました。

越ケ浜の夕景

松陰神社を見学した後、宿泊先の越ケ浜に向かいました。
この日は比較的天気が良くて、多少雲はありましたが、良い日没が見られそうでした。
夕食までに時間があったので、浜の方に出かけ、陽が沈んでいくのをのんびりと眺めていました。



海岸からの日没の様子ですが、着いたときには太陽が雲の中に入ってしまい、海の反射は弱々しいものでした。

 

しばらくすると、雲の下から太陽が顔を出し、ぼんやりとしていた反射も細く、強くなりました。
右の写真は、完全に雲が切れて太陽が出たときのものですが、さらに反射は細く、強くなりました。
最初の写真から20分ほどの間の変化ですが、ずいぶんと雰囲気が変わりました。

萩城 城下町

翌日は、少し離れた所にある萩城跡のある指月公園の方に行って、城下町を散策しました。

萩城(はぎじょう)は、別名・指月城(しづきじょう)とも言われる萩市にあった城で、国の史跡に指定されています。
関ヶ原の戦いで西軍総大将に就いたことにより周防国・長門国のみに減封された毛利氏が、
広島城に代わる新たな居城として1604年(慶長9年)に築城しました。
指月山(しづきやま)の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されていました。
250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点として使用されましたが、廃城令により1874年(明治7年)に破却されました。
そのため、現在は石垣や堀(水堀)のみが残され、指月公園として整備されています。

街をぶらぶら散策する前に、近くにある萩八景遊覧船に乗ることにしました。

 

指月橋の袂からスタートし、堀内重要伝統的建造物群を眺めながら橋本川へ向かいます。
橋本川に出て、川を遡りながら白壁(左の写真)が続く平安古重要伝統的建造物群を眺めます。
旧田中別邸先で折り返し、萩八景のひとつ玉江に沿って下って行きます。
玉江橋辺りからは、平安古の河岸にある松の木越しに指月山が見えてきました。

 

玉江に近づくにつれ、松林が左にずれてきて、指月山が全体を現しました。

 

常盤橋に近づくと、右手に常盤島という人工島が正面に見えてきました。
この島は指月山の目隠し用に作られたとかで、松がたくさん植えられており、お月見などに興じていたそうです。
ここでは、今も秋の観月のお茶会が催されているそうです。
常盤島の所で曲がって、出港したところを通り過ぎ、そのまま海(菊ヶ浜近く)まで出て折り返します。
折り返して戻る際、右手の石垣の上に古びた土塀が見えてきました。
萩城本丸の石垣と土塀です。この土塀の裏には萩城跡があり、萩城の内堀や井上門跡があります。

そのままスタート地点に戻って、水上からの萩観光を終えました。



観光船の乗り場からほど近い萩城跡指月公園に向かいました。
萩城跡指月公園に渡る土橋(極楽橋)の手前から見た指月山です。標高143mの円錐形をした山です。
城内の山であったため、長らく人手が入っておらず、その結果として暖地性原生林となっています。
巨木が多く、幹回り5m以上のクスノキや樹齢600年といわれる古木があり、国の天然記念物となっています。
写真右端は萩城本丸の門跡。左端の一段と高くなっている所は天守台で、東西約20m、南北約14.5mあります。
ここに高さ14.5mの5層の天守閣があったそうです。手前に見えているのは萩城跡の内堀です。

萩城跡の散策を終え、水路を渡って城下町を散策します。



最初に目についたのは、やたらと長い建物でした。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(きゅうあさもうりけはぎやしきながや)という、武家屋敷の一部だそうです。
毛利家一門の1つである厚狭毛利家の武家屋敷は、明治維新後に解体され、この長屋だけが残っています。
梁間5m、桁行51.5mの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物で、国の重要文化財に指定されています。

 

さらに歩いていると、堀内1区で土がむき出しになった古びた土塀が見られました。
元は白壁だったのでしょうか。土を古瓦で挟むようにして積み上げられ、これはこれで味があります。
このような瓦を埋め込んだ土塀は「瓦土塀」と呼ばれ、雨で土が流れるのを防止する効果があるそうです。



 

さらに歩いていくとクランクになった所に出ました。堀内鍵曲と言われているそうです。
上段の写真がクランクの最初の曲がり角で、ここで右(写真の正面)に折れます。
下段左の写真は、次の曲がり角で左(写真の正面)に折れる角の部分を撮ったものです。
右の写真は少し進んで振り返って撮った写真です。

ここではいろいろな土塀が見られました。
最初は石垣が高く、白壁がほんの少ししかない、石垣と行って良いような土塀(上段の写真左側)です。
その正面には、瓦を規則正しく等間隔で入れた瓦土塀が見られます。見た目もきれいで良いですね。
その瓦土塀は、次の曲がり角の部分で石垣が1段、2段と高くなり、角の部分では土塀は極一部だけになります。
そして角を過ぎると石垣はドンと低くなり、瓦土塀の部分が広くなります。
ただ、こちらの土塀は、先ほどとは異なり、瓦の入れ方が乱雑になり、下の方では石も使われています。
おそらく、瓦を見せるのではなく、土で塗り固められていたものと思われます。上の方には塗られた跡が見られます。
なお、角の部分の石垣が高くなっているのは、角の部分の強度を上げるためではないかと推測されます。

 

さらに歩いていると、非常に長い白い漆喰で塗り固められた土塀が現れました。
問田益田氏旧宅土塀(といだますだしきゅうたくどべい)で、多少傷んではいますが、見事な土塀ですね。
永代家老益田家の分家筋にあたる問田益田氏の旧宅に巡らされた土塀で、長さは延べ231.7mになるそうです。
この辺り一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、この土塀が最も往時の姿を留めているとのこと。
土塀の石垣部分は高さが1m、奥行き1.1m、上部の漆喰部分は高さ1.45m、奥行き0.8m、本瓦葺きです。



上記の土塀の反対側は、上記のように石が積み上げられていました。
植栽の後ろがどうなっているのか分かりませんので、石垣なのか、塀なのかは不明です。

秋芳洞・秋吉台

秋芳洞(あきよしどう)は、秋吉台国定公園の地下100〜200mにある、日本屈指の大鍾乳洞です。
洞内の観光コースは約1kmですが、総延長は1990年頃に8.5kmに、2016年には10.3kmとなっています。
鍾乳洞としては日本最大規模で、洞奥の琴ヶ淵より洞口まで、約1kmを地下川が流れ下っています。
洞口に滝があるために古くは、「滝穴」と呼ばれていました。
1926年の大正天皇皇太子(後の昭和天皇)が行啓の折、名称の撰定を依頼し、「秋芳洞」と命名されました。
ただ、町名が秋芳町(しゅうほうちょう)なので、地元では「しゅうほうどう」と読む方も多いそうです。

その秋芳洞があるのが秋吉台(あきよしだい)で、日本最大のカルスト台地です。
その広さは北東−南西方向に約16km、北西−南東方向に約6kmあり、台地の総面積は54平方kmあります。
台地面の標高は180〜420mで、台地は厚東川によって東西に分けられ、東台のみが国定公園となっています。
台地上には無数の石灰岩柱が林立し、多数のドリーネ(すり鉢状の溶食凹地)が発達し、400超の鍾乳洞があります。
東台の主要部は草原になっており、毎年2月に野焼きが行われています。
一方、西台の多くは樹林で、凹地3ヶ所に集落があり、灰石資源の鉱区として数ヶ所で採掘が行われています。

 
 <黄金岩(こがねいわ)>                                   .
黄金岩の名板の右側にある褐色味を帯びた岩と、その両側の灰白色を帯びた岩を対比した命名でしょうか。
右の写真は天井から短めのつらら石が垂れ下がり、一部、その先がストローになっていました。

 

秋芳洞の内部ですが、左は照明光で撮影したもので、右がフラッシュ撮影したものと合成したものです。
現在はLED照明に変わっているようですが、当時は水銀灯や電球による照明でした。
そのため、ホワイトバランスを調整しないと、緑っぽい色や橙色が入り混じった写真になってしまいます。
左の写真は、後で色調補正をして緑っぽい所を修正しましたが、奥の電球照明の所は赤味を増してしまっています。
また、撮影したところには照明がなかったので、暗くなってしまいました。
そこでフラッシュ撮影したのですが、手前は写りますが奥まで光が届かず、奥は薄暗くなってしまいました。
そこで、手前が暗くなっている照明光撮影の画像と、手前のみ明るく写っているフラッシュ撮影の画像を合成しました。
要するに、良い所取りした画像ということです。手前の岩から、洞窟の奥の方まで見えていますね。

 

左の写真のつらら石は、先の方がこぶ状になったり、平たく横に広がった、不思議な形をしていました。
右の写真のつらら石は、太短くゴツゴツとしていて、白っぽい所と褐色に色付いた所が混じっています。

 

左の写真のつらら石は、先ほどのものより成長していますが、やはり白っぽい所と褐色の所が混じっています。
右の写真は「飛行機雲」の名板があります。名板の上の白い横に伸びる線を指しているものと思います。
手前の天井部分が緑色をしています。おそらく、人の持ち込んだ藻類などの繁殖によるものと思われます。
現在は、LED照明に切り替わって、繁殖が広がっているようで、かなり緑色に変色したところがあるようです。

 

左の写真では、岩の割れ目に沿って短いつらら石が線状に並んで、碁盤目のようになっています。
右の写真には「かくし船」の名板がありました。割れ目からのつらら石が大きく成長したようです。

 

左の写真は、ドリーネ(すり鉢状の溶食凹地)のようなものと思われます。
下の方に水が溜まっていますので、水がこの穴を通って下部に流れ、周りを溶かしたのかもしれません。
右の写真には、色も形もラグビーボールのようなつらら石が見られます。

ここで、秋吉台へのエレベーター乗り場に着いたので、上に上がることにしました。

 



さすが、日本最大のカルスト台地「秋吉台」ですね。広いです。
巨大な石灰岩の台地が、雨で削られ、無数の石灰岩柱になり、その下を草が覆い隠した景色がこれなんですね。
そして、この下に巨大な鍾乳洞である秋芳洞を始めとした、多数の鍾乳洞が隠れています。
自然が作り上げた壮大な景色を目の当たりにして、自然の力の偉大さを思い知らされます。

雄大な景色を堪能したので、地下の鍾乳洞に戻りました。
その後、出口まで行ったのですが、写真をあまり撮っていなかったので、戻って撮り直してきました。

   
<黄金柱(こがねばしら)>        <黄金柱(こがねばしら)>        <巌窟王(がんくつおう)>
エレベーターを降りた先に、秋芳洞最大の石柱「黄金柱」があります。高さ15m、幅4mあります。
近くで撮ったら全体が入りません。少し離れて撮ったのですが、上下が切れてしまいました。
次に現れたのは、大きな石筍である「巌窟王」です。高さ8m、直径3mとこれも巨大です。

 
<くらげの滝のぼり>                      <傘づくし>  .
くらげの滝のぼりは大きなフローストーンで、壁面を流れ落ちる水によって作られたものです。
傘づくしはつらら石ですが、多数の細長いつらら石が、天井から垂れ下がっている様を傘に見立てたものです。

 
<百枚皿(ひゃくまいざら)>                  <千町田(せんまちだ)>  .
どちらも棚田のようなリムストーンと呼ばれるもので、波紋の縁に石灰分が沈積してできたものです。
百枚皿は、比較的小さなものが500以上あり、千町田は数は少ないですが、1つの面積がかなり広いです。
なお、どちらも1つのリムストーンは高さ数十cm止まりで、それため皿を重ねたように見えるのが百枚皿です。

沖縄の玉泉洞にもリムストーンがありますが、周囲31m、高さ2.5mとその大きさは別格でした。

 

秋芳洞の洞内の様子です。最も広いところで200mほどあり、最も高い所では80mほどあります。
この2枚の写真でも、その広さや高さが想像できると思います。
なお、右の写真では川が手前の方に流れてきていますが、この写真の手前側が出口です。



秋芳洞の出口です、外の光が眩いですね。洞内を流れてきた川の出口でもあります。

秋芳洞を堪能した後、今日の宿泊地である山口市内に向かいました。

津和野

津和野町は、島根県の南西に位置する町で、昭和30年に小川村、畑迫村、木部村と合併し、
さらに 平成17年に日原町と合併して、現在の津和野町となっています。
津和野の歴史は古く、今から約9000年前の早期縄文時代から人々が住んでいたことが確認されています。
約1700年前の前期古墳時代の土器や、約1200年前(平安時代の前半頃)の土師器や須恵器も見つかっています。
明治維新前は、津和野藩亀井氏の城下町であり、その町並みは小京都の1つとして知られています。
かつて家老屋敷が隣接していた殿町のなまこ塀と掘割りは、錦鯉が泳ぐ津和野のシンボル的スポットです。

現在は、SLやまぐち号の終着駅であり、萩と合わせた観光地として訪れる人も多いそうです。
弥栄神社に伝わる古典芸能神事である鷺舞(さぎまい)は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
1643年(寛永20年)に京都に人を送り、京都祇園会の鷺舞を直接習得させたのが始まりだそうです。
京都の鷺舞が廃れてなくなった今、日本に只1つ残る鷺舞となっています。

 

津和野をブラブラと散策していましたが、有名な殿町に残る掘割りとなまこ塀の所に出ました。
花菖蒲の季節は過ぎているので葉のみですが、その下を大きな錦鯉が泳いでいました。
左の写真は、藩校養老館(1786年(天明6年)創設)の側を流れる掘割です。
右の写真は、藩校養老館の先にあるなまこ壁です。写真はないのですが、この向かい側に大岡家老門があります。



津和野駅の裏手の山中にある、こじんまりとした乙女峠マリア聖堂(おとめとうげマリアせいどう)です。
名称は江戸末期から明治初頭の隠れキリシタンにまつわる、下記のような歴史に由来しています。
この地の正式名は枕流軒(ちんりゅうけん)ですが、津和野城主の娘が埋葬されたので乙女山と呼ばれていました。
この地に長崎の浦上から送られて、光琳寺に幽閉、拷問を受けて37名の殉教者が出ました。
1951年(昭和23年)に光琳寺跡地に、聖母マリアと36人の殉教者に捧げる聖堂として建立されました。
後に、聖母マリアに献堂されたことから「マリア聖堂」と呼ばれるようになったものです。

この後、津和野で昼食を取り、山陽自動車道に乗るために、岩国市に向かいました。

錦帯橋

錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋です。
杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て、1673年に創建されました。
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、5連のアーチからなり、全長193.3m、復員5.0m。
主要構造部は、継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られています。
石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋となっています。
1950年(昭和25年)の台風で全て流失し、1953年(昭和28年)に建造当時のまま復元されました。
2001年(平成13年)〜 2004年(平成16年)に、木造部分の全面架け替え工事が行われています。
訪れたのは、この架け替え工事で真新しくなった翌年でしたので、奇麗な木肌が見えていました。
ところが、この訪れた1週間ほど後、台風14号による増水で、一部が流失してしまったのです。
第1橋を支える木製の橋杭(きょうぐい)5基のうち2基が流失した映像がTVに流れていました。

 

山陽自動車道に乗る前の軽い運動を兼ねて、前年に架け替えられた錦帯橋を見に行きました。
架け替えから1年ちょっと経っていますが、まだ、木の部分は真新しさが残っていました。
木組みだけでこのアーチ橋を作るのは、自重によるたわみなどもあり、すごい技術が必要ではと思います。

実は、この1週間ほど後の2005年(平成17年)9月7日、台風14号による増水で、橋杭2基が流失したのです。
流されたのは、右の写真で右手前に写っている第1橋の左から1番目と2番目(橋脚に近い2基)の橋杭です。
橋そのものは残っていましたが、2基の橋杭が流された痛々しい映像が、TVから流れていました。









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