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播州地方のいろいろ


更新:2024/2/23

地元を離れて久しいのですが、帰省するたびに出かける機会があると、写真を撮りに行っています。
そのため、古い写真もあるのですが、機会を見つけて更新して行きたいと思っています。

< トピック >

今年も正月に、近くの鹿嶋神社、高砂神社、荒井神社、生石神社に初詣に行ってきました。
混んでいる正月三が日を避けて行ったので、ゆっくりとお参りすることができました。
その際、御朱印を頂いてきたのですが、御朱印のデザインは昨年とほぼ同じです。
神社によって基本的なデザインは決まっているようです。

播州地方のいろいろ
インデックス


高砂神社(たかさごじんじゃ)
<兵庫県高砂市高砂町>

高砂神社は、兵庫県高砂市にある神社です。
祭神は、素盞嗚尊、大己貴命、奇稲田姫です。
社伝によれば、神功皇后の西征は大己貴命の加護によって果たされ、
その凱旋の際に、大己貴命の「鹿子の水門(かこのみなと)に留まる」との神託を受け、
神功皇后の命により大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたと伝わっています。
また、天禄年間に疫病が流行した際、
素盞嗚尊・奇稲田姫を合わせ祀ったところ、疫病が治まったと伝わっています。

日光田母沢御用邸に行った際、高砂神社の社伝に基づく、「高砂」の杉戸絵が展示されていました。
この絵の「尉と姥(じょうとうば)」は、地元では「じょうとんば」として親しまれています。

あるとき、1つの根から雌雄2本の幹をもつ松が境内に生えた。
この松は、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)の2神が宿る霊松とされ、相生の松と称された。
初代相生の松は天禄年間に、2代目は兵火によって天正年間に枯死したと伝えられている。
本多忠政がこれを惜しみ、遷宮の際に3代目の相生の松を植えたと言われている。
3代目相生の松は大正13年に天然記念物に指定されたが、昭和12年に枯死した。
4代目は松くい虫の被害により短命に終わり、現在は5代目の松が枝を張っている。
なお、3代目相生の松は、枯れ死した幹が霊松殿で保存されている。

神社の境内では、樹齢千年を超える「御神木いぶき」も見ることができる。
阿蘇の神主友成が上京途中に高砂の浦に立ち寄った際、
持っていた杖を地面に突き刺していたところ、その杖から芽を吹いたものとされる。

 
<表門>           2023/1/3     <拝殿>       .

<本殿>        2023/1/3         <拝殿>
高砂神社に行くのは、小学高時代以来なので、何十年ぶりでしょうか。
場所は覚えていましたが、最近の状況が分からないまま、車で出かけました。
案の定、駐車場に出来る場所が少ないので、駐車待ちの車が神社を取り巻いていました。
待つことしばし、何とか空きが出来たので、駐車して神社に向かいます。
その駐車場の端に鳥居が建っていて、その10mほど先に表門があります。
門の奥に拝殿が見えていますが、その途中に御神木いぶきや霊松殿などがあります。
参拝を済ませ、右手の方におみくじを引く所があったのですが、御朱印は見当たりません。
場所を聞くと、本殿の裏にある社務所で対応しているとの事。
御朱印をいただき、本殿の裏手をぐるりと周って撮ったのが下段の写真です。
拝殿には、注連縄ではなく、注連柱(二本の石柱の間に注連縄を張ったもの)が飾られていました。


2023/1/3 <おみくじ掛け>
ここのおみくじは、ピンク色の花みくじになっていてます。
そのおみくじ掛けは、竹を割いて作られていて、上部はハート形になっています。
ここにピンクのおみくじを結ぶので、ごらんのように他では見られない艶やかさです。


2023/1/3 <御神木いぶき>
御神木いぶきは、樹齢千年を超える古木です。
阿蘇の神主友成が上京途中に高砂の浦に立ち寄った際、
持っていた杖を地面に突き刺していたところ、その杖から芽を吹いたものと伝えられています。
真偽のほどは分かりませんが、相当な古木であることは間違いありません。


2023/1/3 <霊松殿>

<3代目相生の松>    2023/1/3    <5代目相生の松>
上段は霊松殿で、この中に天然記念物に指定されていた3代目相生の松があります。
下段左がその3代目相生の松で、枯れたときの姿のまま保存されています。
下段右は5代目相生の松で、現在、成長途中といった所です。

高砂神社の御朱印


2023/1/3
令和5年癸卯の歳を記念して授与される、初詣の御朱印をいただいてきました。


2024/1/15
ちょっと遅くなりましたが、令和6年甲辰の歳の初詣の御朱印をいただいてきました。
昨日も行ったのですが、生石神社で手間取って、終了時刻に間に合わなかったので出直しました。


荒井神社(あらいじんじゃ)
<兵庫県高砂市荒井町>

荒井神社は、兵庫県高砂市荒井町にある神社です。
祭神は、主神が大己貴神(おおなむちのかみ)で、相殿神は事代主神(ことしろぬしのかみ)です。
国造りの神である大己貴神は、土木建築の神、縁結びの神、医療施薬の神など多くの御神徳があります。
また、福の神だいこくさんとして世の人に慕われ、広く信仰されている。
商売繁盛の神、漁業・海上交通の神である事代主神は、えべっさんとして親しまれている。
明治41年に惠美酒神社を合祀し、だいこくさんとともに福の神として厚く崇敬されている。
なお、大己貴神は大国主命の異名であり、日本神話の因幡の白兎の関係から兔の宮としても知られている。

第34代舒明天皇元年(629年)、大己貴神を奉斎する出雲氏族が瀬戸の海づたいに進出して、
荒井の浜を開拓し、ここに永住するため当社を創建したのが始まりとされる。
鎌倉時代以降は、武士の崇敬を受けてきた。
文明年間(1469〜1487年)に、播磨の太守赤松右京大夫政則により社殿は再建され、
延宝9年(1681年)には、姫路藩主松平大和守直矩が当社に神田を献じている。
明治41年(1908年)に惠美酒神社を合祀し、昭和18年(1943年)に本殿以下の社殿が造営された。
神門は、平成3年(1991年)に造営され、その独特の形式から「竜宮門」と呼ばれている。


<神門/竜宮門>        2023/1/1     <拝殿>          .

        <拝殿>   2023/1/1           <おみくじ掛け>
今年は年男という訳で、兔の宮としても知られている荒井神社に初詣に行ってきました。
神門は、他の神社とは一線画す独特の形式で、「竜宮門」と呼ばれる理由が分かりますね。
拝殿の右手に見える大きな絵馬は、縦約1.7m、横約1.8mと大きなものです。
0歳〜6歳の園児約100人が、和紙のちぎり絵で仕上げたものを奉納したものだそうです。
荒井神社の注連縄は、左綯い(右が綯い始めになっている縄)のゴボウ締めの注連縄です。
拝殿左手の社務所横には、兎の形にしたおみくじ掛けが置かれています。
これは常設されていて、兔の宮としても知られていることに因んだもののようです。


2023/1/15
注連縄などの正月飾りは、関東では7日までですが、関西では15日まで飾ります。
そして、15日のどんと神事(古い御札・御守などを神火でお焚き上げする)で終わります。
本当は、神火が放たれる前に行って、最初から撮影しようと思っていましたが、
気が付いたら数分前になっていたので、積み上げられた所の撮影は諦めました。
写真は、持って行った注連縄など(一番上にある白い物)が燃える所だけを撮ってきました。
写真では何もないように見えますが、参道に出店が出て、境内では抽選会などが行われていました。



2024/1/14
今年もどんと神事に行ってきましたが、今年も出遅れて神火が放たれる前の写真は取れませんでした。
今年も園児の作った大きな絵馬が置かれていて、その前の人だかりは干支のお守りの交換所だからです。
今年は、その反対側に龍の彫り物が置かれていました。二又の大木を利用して彫りあげたもののようです。

荒井神社の御朱印


2023/1/1
癸卯の歳でもある令和5年を記念して、特別授与品の1つに御朱印帳があったので購入しました。
そして、令和5年癸卯の歳を記念して授与される、初詣特別御朱印をいただいてきました。


2024/1/14
今年も令和6年甲辰の歳を記念して授与される、初詣の御朱印をいただいてきました。
うっかり御朱印帳を忘れて行ってしまい、書き置きの御朱印となってしまいました。
紙が模様入りの和紙で、裏に糊が付いていて、簡単に張れるようになっていました。


曽根天満宮(そねてんまんぐう)
<兵庫県高砂市曽根町>

曽根天満宮は、兵庫県高砂市曽根町にある天満宮です。

神社由緒では、菅原道真公が大宰府に左遷される際に、氏子地域に立ち寄ったことを由来するとのこと。
伊保港に船を寄せて、曽根天満宮西方の日笠山に登られ「我に罪無くば栄えよ」と祈って山上に小松を植えられた。
これが霊松(れいしょう)曽根の松で、初代は1798年(寛政10年)に枯死し、現在も幹が保存されています。
実生した二代目は、1924年(大正13年)に国の天然記念物に指定されました。
しかし、二代目も1952年(昭和27年)に枯死し、現在の松は五代目となっています。
菅原道真公の四男淳茂公(あつしげこう)がこの地を訪れ、
父君ゆかりの場所に社殿を建てお祀りしたのが創始とされています。
しかし、1578年(天正6年)の豊臣秀吉の播州征伐の際、兵火にかかり社殿が焼失しています。
その後、1590年(天正18年)に寺沢越中守を奉行として本殿が再建され、社領10石が寄せられました。
1609年(慶長14年)には、姫路城主池田輝政の側室である督姫の寄進により拝殿が建立されました。
1648年(慶安元年)には、3代将軍家光が朱印領30石を寄せ、以後累代の将軍がこれに習っていました。

この曽根天満宮でもいろいろな祭事が行われますが、秋季例大祭が見事です。
反り屋根型布団屋根の大人屋台が10台、同型の子供屋台が2台出て、練り合わせを行います。
また、一ツ物神事が行われ、その露払いとして、高さ10mあまりの青竹を割る竹割りが行われます。
宵宮は午後から、上記の神事が夜の10時頃まで行われます。
翌日の本宮では、上記に加え和供盛(にごくもり)、お面掛け、奉納相撲神事などが朝から行われます。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

秋季例大祭 2019/10/13〜14

秋季例大祭の見ものの1つが屋台で、大きな屋台の練り合わせは、勇壮で、見応えがあります。
多くの屋台は神輿屋根ですが、曽根天満宮の屋台(地元ではヤッサと呼ぶ)は、少数派の反り屋根型布団屋根です。
この布団屋根は曽根天満宮が発祥地であり、姫路市別所町の宮大工に作らせたのが起源とされています。
屋台の4本の柱間は二尺八寸(84.84cm)で、二と八を重ねると鳥居の形になるからだそうです。
この4本の柱の中心に太鼓が置かれ、4人が乗り込んで太鼓を打ち、屋台後方の乗り子がリーダーです。
これらの屋台(2t強)を50〜60人ほどで担ぎ、太鼓の打ち方で屋台を練り合わせたり、差し上げたりします。
それに少し小型の子供屋台(乗り子は子供ですが、担ぎ手(練り子)は大人)が加わります。
子供屋台というと、子供が担げるような小型のものを連想しますが、ここの物は子供が担げる代物ではありません。


<大人屋台の練り合わせ>

<大人屋台の練り合わせ>

<子供屋台の練り合わせ>

<大人屋台の宮出し/電飾>
この時の宵宮では、大人屋台10台と子供屋台2台が出て、練り合わせをしていました。
時折、屋台を支え上げて静止させる「差し上げ」や前後左右の揺さぶりなども行い、勇壮で迫力があります。
宵宮の宮出しが行われる頃には陽が落ちていますので、屋台も電飾され、昼間とは異なる雰囲気になります。


<一ツ物神事と竹割り>
一ツ物神事と竹割りは一体の神事で、竹割が一ツ物の露払い的な役割を持っています。
高さ10mあまりの太い青竹を立ち上げて、それを持ち上げては地面にたたきつけて、竹を割ります。
これもなかなか迫力のある神事で、一ツ物(稚児)が主役の神事とは対照的です。

秋季例大祭 2022/10/13〜14

コロナ禍で中止になっていた曽根天満宮の秋季例大祭が3年ぶりに行われました。
今年はお宮まで見に行けませんでしたが、地区内の巡行は見ることができました。


<地区内の巡行 10/13>
地区内の巡行では、シデを振る乗り子は子供が務め、屋台を引くのに子供も参加します。
地区の子供にとっては、秋季例大祭が晴れ舞台となり、親も力を入れています。


<地区内の巡行 10/14>
出来るだけ多くの家々の前を通るように、前日とは異なるルートを巡行して行きます。


<宮出し後の帰還 10/14>
宮出しの後、屋台を保管している蔵まで戻るのですが、帰ってくるのは9時頃になります。
最近は電飾されているので、昼間とは違って夜の方が派手な演出になっています。
子供もアドレナリンが出ているのか、とても元気にシデを振っていました。


<水神さんも秋祭りモード>
秋季例大祭の期間は、地区の水神さんも秋祭りモードになっています。

秋季例大祭 2023/10/13

今年も秋季例大祭の宵宮が10/13に、本宮が10/14に行われました。
今年は都合でお宮まで行けませんでしたので、10/13に地区内巡行と帰還時に見ることができました。
翌日の本宮は、雨予想で地区内巡行時からビニールで屋台を覆っていましたが、午後からは大雨。
予定されていた行事が早めに行われ、屋台の帰還も1時間ほど前倒しになったようです。
10/14は、太鼓の音は聞こえていたのですが、雨に負けて行かずじまいとなりました。

 
<地区内の巡行 10/13>
地区内の巡行ではシデを振る乗り子は子供が務めるのですが、今年は女の子も参加していました。
地区の子供にとっては、秋季例大祭が晴れ舞台となり、親も力を入れています。


<宮出し後の帰還 10/13>
宮出しの後、屋台の保管蔵まで戻るのですが、帰ってくるのは8時頃(本宮のときは9時頃)になります。
帰還のときに提灯が先導していきますが、今年は、歩くだけでなく、飛び跳ねている子もいました。
疲れてぐったりしている大人がいるのに、子供は元気だね〜。

初詣 2023/1/2

秋季例大祭にはよく行っていたのですが、初詣はいつ行ったか記憶がありません。
散歩がてら徒歩で初詣に行くことにしたのですが、思った以上に遠かったです。


<参道>        2023/1/2         <本門>
山陽電鉄曽根駅の直ぐ脇に鳥居があり、そこから参道が続いています。
正面に見えているのが本門で、銅板葺きのため、屋根は緑色です(右の写真は露出オーバー)。
この本門の奥に、拝殿に飾られている大きな注連縄が見えています。


2023/1/2 <拝殿と大注連縄>
拝殿の前に飾られている注連縄は、左綯いの大根締め注連縄です。
神道では、神に向かって右が上位、左が下位となるため、右方が綯い始めになる左綯いが一般的です。
下の人と比べると、その大きさが分かると思いますが、相当な重量がありそうです。


<権現造の社殿>       2023/1/2       <本殿>
曽根天満宮の社殿は権現造になっていて、手前に拝殿、奥に本殿があり、その間に幣殿がある構造です。
本殿の上に付けられている千木は、先端を地面に対して垂直になる外削ぎになっています。
祭神が男神の社は外削ぎ、女神の時は内削ぎになるという説があるが、これは俗説との事。


2023/1/2 <おみくじ掛け>
曽根天満宮のおみくじ掛けは竹を割いて作られてものですが、高砂神社のものとは形が異なります。
割いた竹を株で束ねた、立体的なハート形になっていました。


2023/1/2
参拝者が多いこともあってか、書き置きの御朱印のみでした。
比較的シンプルなデザインの御朱印です。

梅まつり 2023/3/4

梅の実を取るためではなく、花を楽しむ梅園なので、いろいろな種類の梅が植えられていました。
規模的にも200本程度と、比較的小規模な梅園です。
ただ、近くに梅園のような所がないこともあって、想像以上に人出は多かったです。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。



近くを通ったとき、ついでに寄って行こうと軽い気持ちで曽根天満宮に立ち寄りました。
ところが、思っていた以上に混んでいて、車を止めるのに四苦八苦してしまいました。
本門の近くには梅まつりの旗があげられていて、梅まつりが行われていたためのようです。
この旗竿の右手にも小さな門があり、その正面の方に梅園があります。
その門から見たのが右側の写真で、中央辺りに見えているのが梅園の端の方になります。



メインの梅園を外から見たのが左の写真で、中の様子が右の写真になります。
紅梅や白梅、一重や八重、しだれ梅など多種多様な梅の木が植えられていました。


大塩天満宮(おおしおてんまんぐう)
<兵庫県姫路市大塩町>

大塩天満宮は、兵庫県姫路市にある天満宮で、正式名称は天満神社。旧社格は郷社です。
この大塩天満宮ですが、1998年(平成10年)に山陽電気鉄道大塩駅の北側から南側に移転しています。

神社由緒では、菅原道真公が大宰府に左遷される際に、氏子地域に立ち寄ったことを由来するとのこと。
その由縁で、旧大塩村の伊屋明神に菅公を奉祀、後に菅公が主神、在来の神が配祀となり天満宮を称したとされます。
ただ、元宮については、他に2つの説があるそうです。
山麓の伊屋明神に菅公を祀ったのではなく、天神山に天満神社を創建しており、それが元宮であるという説。
2つ目は、旧小林村の賀茂明神が元宮で、菅公、伊屋明神が合祀されたという説です。
なお、加茂明神は、高砂市竜山にある賀茂神社であるという説もあるそうです。

この大塩天満宮でもいろいろな祭事が行われます。
私の見たことがあるのは、正月に行われる歳旦祭・大護摩祈願祭と秋季例大祭です。
写真が残っているのは、歳旦祭・大護摩祈願祭のみで、それらを以下に掲載いたします。
秋季例大祭は、役をされていた方の自宅で毛獅子の舞を見せていただいたのですが、写真はありません。
なお、この毛獅子は胴幌一面が毛で覆われており、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されています。
この毛獅子は、8頭あるのですが、このときに見たのは西濱丁のものだと思います。

秋季例大祭では、6台の屋台が練りだされるのですが、見たことがありませんでした。
2023年の秋季例大祭で、境内で練り合わせを行っている黒漆の神輿屋台3台を見る事が出来ました。
この時期、高砂神社、荒井神社、曽根天満宮、大塩天満宮、松原八幡神社などで同じように屋台が出ます。
私が子供の頃は、いつも曽根天満宮の方で反り型布団屋根の屋台の練り合わせなどを見ていました。
この布団屋根の屋台ではない、神輿屋台の練り合わせを見たのは初めてになります。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

歳旦祭・大護摩祈願祭 2010/1/1
『火渡り法要』

歳旦祭・大護摩祈願祭。メインイベントの1つが『火渡り法要』です。
正式名は柴燈大護摩供法要で、無病息災、罪障消滅を願い、赤い炭火の上を素足で渡る行事です。
境内の護摩壇に点火し、願い事が書かれた護摩木が投げ込まれ、20分ほどで燃え尽きて崩れ落ちます。
この崩れた燃え殻を太い竹の棒で砕いて広げ、火渡り用に敷き詰めます。

 

周りを囲った生の針葉樹が燃え尽きると、煙はほとんどでなくなり、全体が真っ赤な炎で包まれます。
炎が少し鎮まるまで、山伏たちがほら貝を吹き鳴らし、般若心経を唱えていました(左側の写真)。
護摩壇が崩れ落ち、炎がほとんど見られなくなったところで、火渡りの準備が行われます(右側の写真)。



この燃え殻の上を最初に山伏が裸足で渡ります。

 

その次に渡るのは、大塩天満宮の宮司さんで、ここまでは例年決まっている順番のようです(左側の写真)。
その後は、老若男女を問わず、参詣者が次々と裸足で渡って行きます(右側の写真)。

斯く言う私ですが、真っ赤な炭火の上に乗っかる勇気がなくて断念しました。
一応、乗っても火傷をしないようになっているのは知っているのですが、目の前で見るとちょっとね。

初詣 2023/1/3

近くに行く用事があったので、ついでに大塩天満宮に立ち寄り、初詣に行ってきました。
前回、初詣に行ったのが2010年ですから、ずいぶん久しぶりの初詣です。


<鳥居>         2023/1/3          <本門>
大塩天満宮の鳥居には、左綯いの大根締め注連縄が飾られていました。
神道では、神に向かって右が上位、左が下位となるため、右方が綯い始めになる左綯いが一般的です。


2023/1/3 <拝殿>
拝殿には、注連縄ではなく、注連柱(二本の石柱の間に注連縄を張ったもの)が飾られていました。


2023/1/3
参拝者が多いこともあってか、書き置きの御朱印のみでした。
今回いただいた御朱印の中では、最もシンプルなデザインの御朱印です。

秋季例大祭 2023/10/15

近くに行く用事があったので、ついでに大塩天満宮に立ち寄り、秋季例大祭(本宮)を見てきました。
境内はそれほど広くないので、屋台は3台も入ればいっぱいになってしまいます。
その3台が、見物客であふれている狭い境内で練り合わせを始め、大盛り上がりとなっていました。
その境内の外には、8頭の毛獅子が並べられていましたが、これらで道中舞や奉納舞を演じます。
昨年も近くに来たのですが、その時にはマンションの入口近くで舞っているのを見かけました。
軽トラに太鼓などを乗せて各々の氏子地区を周り、所定の場所で毛獅子の舞を行っていたようです。


<宮本丁の屋台>         <東之丁の屋台>         <中之丁の屋台>
大塩天満宮の近くに行く用事があったので、ついでに本宮をちらっと見てきました。
境内が狭いので、上記の3台が入るとほぼいっぱいで、人でごった返していました。


<練り合わせ>
しばらくすると、前述の3台の屋台が寄り集まってきて、練り合わせが始まりました。
3台の屋台が寄り集まったまま、境内の中を右や左へと動き回り、人もそれに合わせて移動します。



人でごった返している境内を出ると、台の上に毛獅子が8頭並べられていました。
各々個性があり、顔が異なるのはもちろんですが、毛の色も黒や茶色と各々異なります。
本宮なので、この後、午後2時頃から「道中舞」や「奉納舞」が演じられるのでしょう。

今回は時間がなくて、毛獅子の舞は見られませんが、屋台の練り合わせが見られたので満足です。


石の宝殿及び竜山石採石遺跡
<兵庫県高砂市阿弥陀町>

石の宝殿(いしのほうでん)は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称です。
兵庫県と大阪府に、石の宝殿と名の付く所は、5ヵ所あります 。

兵庫県高砂市にある竜山山地、その1つ、宝殿山の山腹の生石神社(おうしこじんじゃ)のご神体が石の宝殿です。
鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)、単に浮石(うきいし)とも言われる巨石です。
横6.4m、高さ5.6m、奥行7.4mの巨大な石で、周りの窪みに水が溜まって取り囲んでいます。
といっても巨石の周囲は掘り込まれていて、水には接していないので、浮いているように見えます。
2014年(平成26年)に、石の宝殿及び竜山石採石遺跡として他の史跡群と共に国の史跡に指定されました。
「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」は、「いしのほうでん および たつやまいしさいせきいせき」と読みます。
なお、石の宝殿は、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」と呼ばれます。

話は変わりますが、この竜山山地で産出する石が、竜山石と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩です。
石質は、軟質で耐火性に富み、加工が容易なことから古墳時代の石棺から明治以降の近代建築に利用されました。
現在まで1700年以上も続いており、160ヶ所以上ある採石遺構の内、31ヶ所が国の史跡に指定されました。

伊保山の隣にある加茂山、その中腹にある巨岩に「觀濤處」の文字を刻んだ碑石が観涛処です。
山頂のすぐ下の南面の崖の岩肌に薬研堀されており、ここからは南に広がる播磨灘を見渡せました。
現在は、製作された当時の採石・加工の技術を残す遺構としても評価され、国の史跡に指定されています。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

<生石神社(おうしこじんじゃ)>

兵庫県高砂市にある竜山山地、その1つ、宝殿山の山腹の生石神社のご神体が石の宝殿です。
大穴牟遅命、少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀しています。

奈良時代の8世紀初めに書かれた『播磨国風土記』の大国里の条には、石の宝殿について下記の記述があります。
「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。
伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」

聖徳太子が摂政の頃、物部守屋は死亡して矛盾しますが、8世紀初期には人造物として存在したことになります。
なお、生石神社は、養和年間(1181年〜1182年)の播磨国内神名帳の「生石大神」が初見とされています。
ただ、「天人が石で社を作ろうとした〜」と、石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承に変わっています。

生石神社は、1579年(天正7年)に、羽柴秀吉が三木合戦の陣所としての貸与を拒否されたことで焼討ちされました。
その際、焼け残った梵鐘は持ち去られて、関ヶ原の戦いで西軍の陣鍾して用いられ、敗戦で徳川家康に渡っています。
徳川家康は、戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄進しています。その鐘の表面には下記の刻印があるそうです。
応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」


2019/6/26
生石神社の駐車場に車を止め、そこから鳥居をくぐって少し上って行くと本殿が見えてきます。
正面の石段の両横には狛犬が置かれ、右手には生石神社の石碑があります。
本殿に入ると、右手の方で参拝し、初穂料を収めて中央の通路から奥に入ります。
その通路の奥の方に「石の宝殿」が見えます。


2019/6/26
本殿の正面に見える石段ですが、そこからさらに下の方に続いています。
その石段の上には建屋があり、休息所になっているようです。
この日も、早朝の散歩に来られた方々が数名、この中で談笑されていました。
この下に続く石段ですが、県道392号線を横切り、そのさらに下にある県道393号線まで続いています。
この県道393号線沿いに鳥居が建っており、この鳥居から本殿に真っ直ぐに伸びている階段が、本来の参道です。

<石の宝殿>

石の宝殿は、横6.4m、高さ5.6m、奥行5.6mの直方体に近く、
奥の四角錐型の突起を含めると奥行7.4mになります。
両側面には幅約1.6m、深さ10〜25cmの溝が彫り込まれています。
上面は堆積物や樹木があって見えませんが、おそらく、上面にも続いていると思われています。
なお、この大きさなので推定でしかありませんが、重さは約465tと見積もられています。

石の宝殿の周囲には水がたまり、この巨石が水に浮いているように見えることから「浮石」と呼ばれています。
ただ、この宝殿山には水平方向に亀裂があり、この巨石の下面は亀裂の上に乗っている状態と考えられています。
この亀裂は、岩盤を水平方向に走る節理であり、この亀裂は古くから「大ズワリ」として石工に知られていました。
このように岩盤と繋がっていない状態を、石工は浮いていると言い、その意味でも「浮石」なわけです。
この亀裂に関しては、正面や側面は水面下で見えませんが、背面は水面上に出ていて見ることができます。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

 
<右側面>                 <背面>

<背面下部に見える亀裂/大ズワリ>
2019/6/26
石の宝殿の周囲には通路が作られていて、ぐるりと回ることができます。
写真を見てわかる通り、石の宝殿の周囲には水が溜まって、石が浮いているように見えます。
掃除をされていた方の話では、数日前に水を入れ替えたので、底まで良く見えますとのこと。

<初詣 2023>

大塩天満宮の帰り道、初詣に生石神社に行ってみることにしました。
石の宝殿には時々来ていたのですが、初詣は初めてになります。
あまり大きな神社ではないので、比較的空いているのではと思ったためです。
しかし、予想に反して多くの人が参拝に来ていて、車を止めるのも空き待ちでした。
神社の中も狭いのに人が多くて、人が少なくなるタイミングでの参拝となりました。


2023/1/3
参拝の後、石の宝殿も久しぶりに見てきました。
お正月ということもあり、水も入れ替えられていました。

生石神社の御朱印

 
2023/1/3                 2024/1/12
2023/1/3 生石神社に初詣に行き、御朱印をいただいてきました。
参拝者が多いこともあってか、書き置きの御朱印のみで、比較的シンプルなデザインの御朱印です。
2024/1/12 昨年に続き、今年も生石神社に初詣に行き、御朱印をいただいてきました。

<大正天皇行幸の碑>


2009/12/31
この石の宝殿を取り巻く背後の岩山には、登口から階段があり、宝殿山(標高65m)に行くことができます。
この宝殿山頂上に行くと、大正天皇行幸の碑「大正天皇行幸之跡」が建っています。


2009/12/31
ここからは南方が開け、播磨灘が広く見渡せたます。
手前を横に走っているのは山陽新幹線の線路で、中央右寄りの白く光っている所は法華山谷川の河口です。
その先に横に白く伸びているのが播磨灘で、昔はもっと良く見えていたものと思います。
現在は、海岸が埋め立てられ、多くの工場や電源開発(株)の火力発電所(煙の出ている煙突)などが並んでいます。
中央、法華山谷川の河口の奥に見えるのは、上島という灯台のある無人島ですが、島内に真水の井戸があります。
子供の頃、よく舟で連れて行ってもらったのですが、10m以上ある海底の海藻や魚が見えていました。
今は、1m下がほとんど見えないほど水質が悪化してしまっていて、残念です。

<竜山石採石遺跡>

この竜山山地辺りで産出する石が、竜山石と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩です。
1億年ほど前の白亜紀後期、大規模な火山活動で流紋岩が水中で粉砕、堆積したものが再固結したものです。
これが凝灰岩の一種である、ハイアロクラスタイトと呼ばれる稀な岩石です。
竜山石には、淡緑灰色のものが最も多く、次いで淡黄褐色のものがあり、赤色のものもは産出量は極少ないです。
通常は淡緑灰色で青竜山石と呼ばれ、これが風化作用で変化したものが淡黄褐色の黄竜山石と考えられています。
これに対して、赤色のものは、熱水の上昇で色相が変化したものと考えられており、そのため少ないのです。

石質は、軟質ではありますが耐火性に富み、加工が容易なことから古くより石材として利用されてきました。
竜山石の比重は約2.3で、圧縮強度は大谷石(凝灰岩)よりはるかに高く、北木石(花崗岩)と同程度です。
一方、破壊ひずみは大谷石と同程度で、北木石より大きく、均質で粘り気があり、丈夫な岩石です。
石材として加工がしやすいために、古墳時代の石棺の材料などとして古くから利用されています。
その後、姫路城の石垣にも使用され、明治以降の近代建築にも利用されていました。
その代表建築として、皇居吹上御苑や国会議事堂、住友銀行本店ビルなどがあります。
私の実家の家の基礎や石段などにも多用されており、青、黄、赤の竜山石が見られます。
また、青竜山石で作られた臼があり、脚部と一体になっているので重く、大人2人で担いでもふらふらします。


2019/6/26
この辺りの山は、山体全体が竜山石(流紋岩質溶結凝灰岩)で出来ており、古くから採石が行われています。
今から1700年前の古墳時代前期の奈良県メスリ山古墳に使用されていることが分かっているそうです。
昔はかなり手前に山裾があったのでしょうが、今はほぼ山頂付近まで切り崩されています。
手掘りから、ダイナマイトによる発破になって、採石能力が大幅に進んだ結果でしょう。
このように竜山石が豊富に取れるため、この近辺にある採石遺跡は31ヶ所は国の史跡に指定されています。

<觀濤處(かんとうしょ)>

宝殿山の隣にある加茂山、その中腹にある巨岩が観涛処で、「觀濤處」の文字が刻まれています。
江戸時代の1836年(天保7年)に、当時の姫路藩家老であった河合寸翁が永根文峰の書を刻ませたものです。
山頂のすぐ下の南面の崖にあり、横幅10m、高さ3mほどの岩肌に薬研堀されています。
現在は、製作された当時の採石・加工の技術を残す遺構としても評価され、国の史跡に指定されています。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

ここは南方が開けて播磨灘を見渡せることから、石の宝殿とともに名所として参詣ルートにもなっていました。
以前は、下からも「觀濤處」と掘り込まれた文字が見えていたのですが、今は見えないようです。
おそらく、岩の下の方の木々が大きくなり、目隠しになっているものと推測されます。
上に登れば、眼下に瀬戸内海を一望できるのではと思いますが、登る機会を逸しました。
機会があれば、登ってみたいと思っています。


2020/8/6
ということで、今年は観涛処に上ることにしました。
観涛処に上るには、まず、加茂神社の境内を通ることになります。
その加茂神社の鳥居が出迎えてくれますが、案内看板には左観涛処、右加茂神社となっています。
加茂神社には帰りに寄ることにして、観涛処に向かいました。
ゆるい坂道を上ると、加茂神社の境内の端に出ます。そこからは石段が続きます。


2020/8/6
石段と坂道を20分ほど上ると、「觀濤處」の文字が見えてきます。
ここまでの通路は、良く整備されているので比較的楽に上れました。
子供の頃、下からこの文字が良く見えていたのですが、今は、前の樹が隠してしまいました。
当然ですが、以前は開けていた前が塞がれて、今は何も見えません。
この観涛処は、高さ3m、幅10mの大きさで、文字は縦横1.8mだそうです。


鹿嶋神社(かしまじんじゃ)
<兵庫県高砂市阿弥陀町地徳>

鹿嶋神社は、兵庫県高砂市阿弥陀町地徳にあり、一願成就・合格祈願の神として信仰されています。
主祭神は、武甕槌命(たくみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)です。

1578年(天正6年)に羽柴秀吉が神吉城を攻めるときに、神社周辺でも戦いがありました。
しかし、戦火に焼かれることなく、神殿は残ったといわれています。
江戸時代、地徳地区開発にあたり、神社の復活が計画され、寛文年間に松平直矩により祭神が復活しました。
元禄時代には本田忠国から境内拡張地を提供し、姫路藩によって崇敬されてきました。

鹿嶋神社は、神社ではありますが、香を焚き、灯明をあげる珍しい風習があります。
これは、武士が出陣に臨んで鹿嶋神社に詣で、武運長久を祈念するとともに、
兜に香を焚き込めて勇ましく出陣した故事が、慣わしとなったと伝えられています。
今ではそれらがロウソクと線香に名残りとして残っていて、御灯明舎と御香炉舎が置かれています。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。


2021/1/13
国道2号線から案内看板に沿って進むと、最初に向かえてくれるのがこの大鳥居です。
1998年(平成10年)に作られたそうで、チタン製の鳥居になっています。
高さ26m、幅35m、柱間18m、柱径3mと、日本最大級の鳥居だそうです。


      <本殿>   2021/1/13   <御香炉舎(左側)と御灯明舎(右側)>
左側は鹿嶋神社の本殿で、拝殿で参って本殿裏を回ることを年の数だけ繰り返す願掛けが行われます。
また、鹿嶋神社は、神社ではありますが、香を焚き、灯明をあげる珍しい風習があります。
右側は、そのお線香を焚く御香炉舎(左側)とロウソクを灯す御灯明舎(右側)です。


2021/1/13
本殿左手の入口横にある「摩(なず)り願い石」と本殿の真裏に置かれた「摩(なず)りダルマ様」です。
どちらも、コロナ対策のため手を触れないようにと書かれていました。
裏手の壁一面には、願い事が書かれた絵馬が所狭しとかけられ、天井からは千羽鶴が下がっています。


2021/1/13
左側は、石畳の参道右手に見える「鹿嶋大神」と書かれた巨大な石碑と、その左手は車用の御祈祷殿です。
右側は、参拝後に帰路を下りてきたところにある御祈祷殿です。左隅に見えているのは車用の御祈祷殿です。

<初詣 2023>

距離が少しあって、人でもかなり多い鹿嶋神社が今年の初詣のとりとなりました。
出かけたのは5日の午前中だったのですが、駐車待ちの車が列をなしていました。
私は市ノ池公園の池に居るヨシガモの写真を撮ることもあって、市ノ池公園の駐車場に入れました。
ヨシガモの写真を撮った後、初詣に鹿嶋神社まで歩き、初めて御朱印をいただいてきました。
その帰り道、独特の御朱印で話題の米田大師寺に寄ったのですが、御朱印は中断中でした。
再開時期に関しては未定と書かれていて、いつもらえるか分からず、ちょっと残念。


   <本殿>        2023/1/5     <御香炉舎と御灯明舎>

   <絵馬>        2023/1/5   <帰路にあるおみくじ掛け>
駐車待ちの車の数から、まだ人出は多そうと思いましたが、そこそこ混んでいました。
御灯明舎と御香炉舎に、ロウソクと線香を立てるのですが、線香の煙が凄かったです。
この後、末社の戎社、出雲社、三宝荒神社にもお参りして、祈祷殿に向かいました。
ここで御朱印をいただきましたが、その場で神職の方が手書きしてくださいました。

<初詣 2024>

今年はいくつかの神社を周ることにしたので、一か所にあまり長居はできません。
鹿嶋神社では参拝をして、御香炉舎と御灯明舎を周った後、社務所で破魔矢とお守りを購入しました。
その後、下の社務所で御朱印をいただいて、神社を後にしましたので、写真は撮りませんでした。
後日、家内と再訪した時に絵馬などの写真を撮ってきました。


2024/2/14
左の写真は、本殿左手の入口横にある「摩(なず)り願い石」の手前に掲げられていた絵馬です。
右の写真は、下の社務所から帰路の入口に向かう所に掲げられたいた絵馬です。
以前からあったのかもしれませんが、いつもここは素通りしてしまうので、今まで気が付いていませんでした。


2024/2/14
左は本殿左手の入口横にある「摩り願い石」で、大量の絵馬が奥の方まで掛けられています。
本殿の真裏には「摩りダルマ様」があり、その背後にも大量の絵馬が掛けられています。
絵馬の多くは受験の合格を祈願するものでしたが、その上部には多くの千羽鶴が下げられていています。
これらには受験以外にも、いろいろな願いが込められているのでしょうね。

鹿嶋神社の御朱印

 
2023/1/5                  2024/1/12
2023/1/5 神職の方がその場で手書きしてくださった御朱印です。
よく見えないかもしれませんが、金色の印にはアマビエが描かれています。
2024/1/12 今年もその場で手書きしていただいた御朱印です。
今年のものには、昨年にはあったアマビエの印はありませんでした。


県道43号線沿いのコスモス畑


2016/11/12
山陽自動車道の加古川北IC。そこから県道43号線に入ってしばらく走るとコスモス畑が見えました。
県道沿いのいくつかの田んぼがコスモス畑になっているようで、ちょうど、満開になっていました。
耕作ができなくなって放置された田んぼをコスモス畑にしているそうで、後継者問題の1側面です。
草ぼうぼうの状態では、見栄えも悪いし、周りの田んぼへの悪影響もあるので、その対策でしょうか。
この地域だけの問題ではなく、日本国内のあちらこちらで問題になっているようです。
見た目はきれいなコスモス畑ですが、問題の根は深いのでしょうね。


2020/10/31

2020/10/31

2020/10/31
久しぶりに満開のコスモス畑を見ることができました。
年を追うごとに少しずつ、コスモス畑の面積が増えているように思います。
また、畑の中の道路に沿って車が止まっているのが見えると思いますが、来訪者がいました。
中段左端の青い屋根はテントで、地区の方が出張っておられるようです。
畑の中にも人が点々と見られ、中に入って楽しむこともできるようです。


2023/10/31
毎年、県道43号線沿いで見られたコスモス畑ですが、今年は見られませんでした。
ところが何の気なしに反対側を見ると遠くにコスモス畑が広がっていました。
どうやら場所が変わったようです。行ってみると駐車禁止の看板ばかり。駐車場の案内がありません。
畑の角に椅子が置かれているので、土日など人出が多いときには案内をしているのかもしれません。
今日は平日だからか人っ子一人おらず、ご近所の方が体操しているくらいで、静かなものです。
駐車場が分からないので、邪魔にならない道路脇を見つけて駐車し、写真だけ撮ってきました。


初詣 御朱印一覧

令和5年癸卯 御朱印一覧

2023年、令和5年癸卯の初詣に出かけた際にいただいた御朱印の一覧です。
より詳しくはこちらに紹介させていただきました。




令和6年甲辰 御朱印一覧

2024年、令和6年甲辰の初詣に出かけた際にいただいた御朱印の一覧です。












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