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播州地方のいろいろ


更新:2019/10/29

地元を離れて久しいのですが、帰省するたびに出かける機会があると、写真を撮りに行っています。
そのため、古い写真もあるのですが、機会を見つけて更新して行きたいと思っています。

< トピック >

今回、曽根天満宮 秋季例大祭の写真を追加しました。

播州地方のいろいろ
インデックス


曽根天満宮(そねてんまんぐう)
<兵庫県高砂市曽根>

曽根天満宮は、兵庫県高砂市にある天満宮です。

神社由緒では、菅原道真公が大宰府に左遷される際に、氏子地域に立ち寄ったことを由来するとのこと。
伊保港に船を寄せて、曽根天満宮西方の日笠山に登られ「我に罪無くば栄えよ」と祈って山上に小松を植えられた。
これが霊松(れいしょう)曽根の松で、初代は1798年(寛政10年)に枯死し、現在も幹が保存されています。
実生した二代目は、1924年(大正13年)に国の天然記念物に指定されました。
しかし、二代目も1952年(昭和27年)に枯死し、現在の松は五代目となっています。
菅原道真公の四男淳茂公(あつしげこう)がこの地を訪れ、父君ゆかりの場所に社殿を建てお祀りしたのが創始とされています。
しかし、1578年(天正6年)の豊臣秀吉の播州征伐の際、兵火にかかり社殿が焼失しています。
その後、1590年(天正18年)に寺沢越中守を奉行として本殿が再建され、社領10石が寄せられました。
1609年(慶長14年)には、徳川家康の息女で姫路城主池田輝政の側室である督姫の寄進により拝殿が建立されました。
1648年(慶安元年)には、3代将軍家光が朱印領30石を寄せ、以後累代の将軍がこれに習っていました。

この曽根天満宮でもいろいろな祭事が行われますが、秋季例大祭が見事です。
反り屋根型布団屋根の大人屋台が10台、同型の子供屋台が2台出て、練り合わせを行います。
また、一ツ物神事が行われ、その露払いとして、高さ10mあまりの青竹を割る竹割りが行われます。
宵宮は午後から、上記の神事が夜の10時頃まで行われます。
翌日の本宮では、上記に加え和供盛(にごくもり)、お面掛け、奉納相撲神事などが朝から行われます。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

秋季例大祭 2019/10/13〜14

秋季例大祭の見ものの1つが屋台で、大きな屋台の練り合わせは、勇壮で、見応えがあります。
多くの屋台は神輿屋根ですが、曽根天満宮の屋台(地元ではヤッサと呼ぶ)は、少数派の反り屋根型布団屋根です。
この布団屋根は曽根天満宮が発祥地であり、姫路市別所町の宮大工に作らせたのが起源とされています。
屋台の4本の柱間は二尺八寸(84.84cm)で、二と八を重ねると鳥居の形になるからだそうです。
この4本の柱の中心に太鼓が置かれ、4人が乗り込んで太鼓を打ち、屋台後方の乗り子がリーダーです。
これらの屋台(2t強)を50〜60人ほどで担ぎ、太鼓の打ち方で屋台を練り合わせたり、差し上げたりします。
それに少し小型の子供屋台(乗り子は子供ですが、担ぎ手(練り子)は大人)が加わります。
子供屋台というと、子供が担げるような小型のものを連想しますが、ここの物は子供が担げる代物ではありません。


<大人屋台の練り合わせ>
 
<大人屋台の練り合わせ>

<子供屋台の練り合わせ>

<大人屋台の宮出し/電飾>

この時の宵宮では、大人屋台10台と子供屋台2台が出て、練り合わせをしていました。
時折、屋台を支え上げて静止させる「差し上げ」や前後左右の揺さぶりなども行い、勇壮で迫力があります。
宵宮の宮出しが行われる頃には陽が落ちていますので、屋台も電飾され、昼間とは異なる雰囲気になります。

 
<一ツ物神事と竹割り>

一ツ物神事と竹割りは一体の神事で、竹割が一ツ物の露払い的な役割を持っています。
高さ10mあまりの太い青竹を立ち上げて、それを持ち上げては地面にたたきつけて、竹を割ります。
これもなかなか迫力のある神事で、一ツ物(稚児)が主役の神事とは対照的です。


大塩天満宮(おおしおてんまんぐう)
<兵庫県姫路市大塩町>

大塩天満宮は、兵庫県姫路市にある天満宮で、正式名称は天満神社。旧社格は郷社です。
この大塩天満宮ですが、1998年(平成10年)に山陽電気鉄道大塩駅の北側から南側に移転しています。

神社由緒では、菅原道真公が大宰府に左遷される際に、氏子地域に立ち寄ったことを由来するとのこと。
その由縁で、旧大塩村の伊屋明神に菅公を奉祀、後に菅公が主神、在来の神が配祀となり天満宮を称したとされます。
ただ、元宮については、他に2つの説があるそうです。
1つ目は、山麓の伊屋明神に菅公を祀ったのではなく、天神山に天満神社を創建しており、それが元宮であるという説。
2つ目は、旧小林村の賀茂明神が元宮で、菅公、伊屋明神が合祀されたという説です。
なお、加茂明神は、高砂市竜山にある賀茂神社であるという説もあるそうです。

この大塩天満宮でもいろいろな祭事が行われます。
私の見たことがあるのは、正月に行われる歳旦祭・大護摩祈願祭と秋季例大祭です。
写真が残っているのは、歳旦祭・大護摩祈願祭のみで、それらを以下に掲載いたします。
秋季例大祭は、役をされていた方の自宅で毛獅子の舞を見せていただいたのですが、写真はありません。
なお、この毛獅子は胴幌一面が毛で覆われており、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されています。
この毛獅子は、8頭あるのですが、見たのは西濱丁のものだと思います。

秋季例大祭では、6台の屋台が練りだされるのですが、見たことはありません。
この時期、高砂神社、曽根天満宮、大塩天満宮、松原八幡神社などで同じように屋台が出ます。
私が子供の頃は、いつも曽根天満宮の方で反り型布団屋根の屋台の練り合わせなどを見ていました。
松原八幡神社は、灘のけんか祭りで有名ですね。高さ4m、約2tの神輿型屋台をぶつけ合います。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

歳旦祭・大護摩祈願祭 2010/1/1
『火渡り法要』

歳旦祭・大護摩祈願祭。メインイベントの1つが『火渡り法要』です。
正式名は柴燈大護摩供法要で、無病息災、罪障消滅を願い、赤い炭火の上を素足で渡る行事です。
境内の護摩壇に点火し、願い事が書かれた護摩木が投げ込まれ、20分ほどで燃え尽きて崩れ落ちます。
この崩れた燃え殻を太い竹の棒で砕いて広げ、火渡り用に敷き詰めます。

 

周りを囲った生の針葉樹が燃え尽きると、煙はほとんどでなくなり、全体が真っ赤な炎で包まれます。
炎が少し鎮まるまで、山伏たちがほら貝を吹き鳴らし、般若心経を唱えていました(左側の写真)。
護摩壇が崩れ落ち、炎がほとんど見られなくなったところで、火渡りの準備が行われます(右側の写真)。



この燃え殻の上を最初に山伏が裸足で渡ります。

 

その次に渡るのは、大塩天満宮の宮司さんで、ここまでは例年決まっている順番のようです(左側の写真)。
その後は、老若男女を問わず、参詣者が次々と裸足で渡って行きます(右側の写真)。

斯く言う私ですが、真っ赤な炭火の上に乗っかる勇気がなくて断念しました。
一応、乗っても火傷をしないようになっているのは知っているのですが、目の前で見るとちょっとね。


石の宝殿及び竜山石採石遺跡
<兵庫県高砂市阿弥陀町>

石の宝殿(いしのほうでん)は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称です。
兵庫県と大阪府に、石の宝殿と名の付く所は、5ヵ所あります 。

兵庫県高砂市にある竜山山地、その1つ、宝殿山の山腹の生石神社(おうしこじんじゃ)のご神体が石の宝殿です。
鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)、単に浮石(うきいし)とも言われる巨石です。
横6.4m、高さ5.6m、奥行7.4mの巨大な石で、周りの窪みに水が溜まって取り囲んでいます。
といっても巨石の周囲は掘り込まれていて、水には接していないので、浮いているように見えます。
2014年(平成26年)に、石の宝殿及び竜山石採石遺跡として他の史跡群と共に国の史跡に指定されました。
「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」は、「いしのほうでん および たつやまいしさいせきいせき」と読みます。
なお、生石神社の石の宝殿は、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」と呼ばれます。

話は変わりますが、この竜山山地で産出する石が、竜山石と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩です。
石質は、軟質で耐火性に富み、加工が容易なことから古墳時代の石棺から明治以降の近代建築に利用されました。
現在まで1700年以上も続いており、160ヶ所以上ある採石遺構の内、31ヶ所が国の史跡に指定されました。

伊保山の隣にある加茂山、その中腹にある巨岩に「觀濤處」の文字を刻んだ碑石が観涛処です。
山頂のすぐ下の南面の崖の岩肌に薬研堀されており、ここからは南に広がる播磨灘を見渡せました。
現在は、製作された当時の採石・加工の技術を残す遺構としても評価され、国の史跡に指定されています。

※ 以下の写真は抜粋したものです。より詳しくはこちらに紹介させていただきました。

<生石神社>

兵庫県高砂市にある竜山山地、その1つ、宝殿山の山腹の生石神社のご神体が石の宝殿です。
生石神社は、大穴牟遅命、少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀しています。

奈良時代の8世紀初めに書かれた『播磨国風土記』の大国里の条には、石の宝殿について下記の記述があります。
「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。
伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」

聖徳太子が摂政の頃、物部守屋は死亡していて矛盾していますが、8世紀初期には既に人造物として存在したことになります。
なお、生石神社に関する記述は、養和年間(1181年〜1182年)の播磨国内神名帳の「生石大神」が初見とされています。
ただ、その内容は「天人が石で社を作ろうとした〜」と、石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承に変わっています。

生石神社は、1579年(天正7年)に、羽柴秀吉が三木合戦の陣所としての貸与を拒否されたことで焼き討ちにしています。
その際、焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いで西軍の陣鍾して用いられましたが、敗戦で徳川家康に渡っています。
徳川家康は、戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄進しています。その鐘の表面には下記の刻印があるそうです。
応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」


2019/6/26
生石神社の駐車場に車を止め、そこから鳥居をくぐって少し上って行くと本殿が見えてきます。
正面の石段の両横には狛犬が置かれ、右手には生石神社の石碑があります。
本殿に入ると、右手の方で参拝し、初穂料を収めて中央の通路から奥に入ります。
その通路の奥の方に「石の宝殿」が見えます。

 
2019/6/26
本殿の正面に見える石段ですが、そこからさらに下の方に続いています。
その石段の上には建屋があり、休息所になっているようです。
この日も、早朝の散歩に来られた方々が数名、この中で談笑されていました。
この下に続く石段ですが、県道392号線を横切り、そのさらに下にある県道393号線まで続いています。
この県道393号線沿いに鳥居が建っており、この鳥居から本殿に真っ直ぐに伸びている階段が、本来の参道です。

<石の宝殿>

石の宝殿は、横6.4m、高さ5.6m、奥行5.6mの直方体に近く、
奥の四角錐型の突起を含めると奥行7.4mになります。
両側面には幅約1.6m、深さ10〜25cmの溝が彫り込まれています。
上面は堆積物や樹木があって見えませんが、おそらく、上面にも続いていると思われています。
なお、この大きさなので推定でしかありませんが、重さは約465tと見積もられています。

石の宝殿の周囲には水がたまり、この巨石が水に浮いているように見えることから「浮石」と呼ばれています。
ただ、この宝殿山には水平方向に亀裂があり、この巨石の下面は亀裂の上に乗っている状態と考えられています。
この亀裂は、岩盤を水平方向に走る節理であり、この亀裂は古くから「大ズワリ」として石工に知られていました。
このように岩盤と繋がっていない状態を、石工は浮いていると言い、その意味でも「浮石」なわけです。
この亀裂に関しては、正面や側面は水面下で見えませんが、背面は水面上に出ていて見ることができます。

 
<右側面>                        <背面>

<背面下部に見える亀裂/大ズワリ>
2019/6/26
石の宝殿の周囲には通路が作られていて、ぐるりと回ることができます。
写真を見てわかる通り、石の宝殿の周囲には水が溜まって、石が浮いているように見えます。
掃除をされていた方の話では、数日前に水を入れ替えたので、底まで良く見えますとのこと。

<大正天皇行幸の碑>

 
2009/12/31
この石の宝殿を取り巻く背後の岩山には、登口から階段で上ることができ、宝殿山(標高65m)に行くことができます。
この宝殿山頂上に行くと、大正天皇行幸の碑「大正天皇行幸之跡」が建っています。


2009/12/31
ここからは南方が開け、播磨灘が広く見渡せたます。
手前を横に走っているのは山陽新幹線の線路で、中央右寄りの白く光っている所は法華山谷川の河口です。
その先に横に白く伸びているのが播磨灘で、昔はもっと良く見えていたものと思います。
現在は、海岸が埋め立てられ、多くの工場や電源開発(株)の火力発電所(煙の出ている煙突)などが並んでいます。
中央、法華山谷川の河口の奥に見えている島は、上島という灯台のある無人島ですが、島内に真水の井戸があります。
子供の頃、よく舟で連れて行ってもらったのですが、10m以上ある海底の海藻や魚が見えていました。
今は、1m下がほとんど見えないほど水質が悪化してしまっていて、残念です。

<竜山石採石遺跡>

この竜山山地辺りで産出する石が、竜山石と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩です。
1億年ほど前の白亜紀後期、大規模な火山活動で流紋岩が水中で粉砕、堆積したものが再固結したものです。
これが凝灰岩の一種である、ハイアロクラスタイトと呼ばれる稀な岩石です。
竜山石には、淡緑灰色のものが最も多く、次いで淡黄褐色のものがあり、赤色のものもは産出量は極少ないです。
通常は淡緑灰色で青竜山石と呼ばれます。これが風化作用で変化したものが淡黄褐色の黄竜山石と考えられています。
これに対して、赤色のものは、熱水の上昇で色相が変化したものと考えられており、そのため少ないのです。

石質は、軟質ではありますが耐火性に富み、加工が容易なことから古くより石材として利用されてきました。
竜山石の比重は約2.3で、圧縮強度は大谷石(凝灰岩)よりはるかに高く、北木石(花崗岩)と同程度です。
一方、破壊ひずみは大谷石と同程度で、北木石より大きく、均質で粘り気があり、丈夫な岩石です。
石材として加工がしやすいために、古墳時代の石棺の材料などとして古くから利用されています。
その後、姫路城の石垣にも使用され、明治以降の近代建築にも利用されていました。
その代表建築として、皇居吹上御苑や国会議事堂、住友銀行本店ビルなどがあります。
私の実家の家の基礎や石段などにも多用されており、青、黄、赤の竜山石が見られます。
また、青竜山石で作られた臼があり、脚部と一体になっているので重く、大人2人で担いでもふらふらします。


2019/6/26
この辺りの山は、山体全体が竜山石(流紋岩質溶結凝灰岩)で出来ており、古くから採石が行われています。
今から1700年前の古墳時代前期の奈良県メスリ山古墳に使用されていることが分かっているそうです。
昔はかなり手前に山裾があったのでしょうが、今はほぼ山頂付近まで切り崩されています。
手掘りから、ダイナマイトによる発破になって、採石能力が大幅に進んだ結果でしょう。
このように竜山石が豊富に取れるため、この近辺にある採石遺跡は31ヶ所は国の史跡に指定されています。

<觀濤處>

宝殿山の隣にある加茂山、その中腹にある巨岩が観涛処で、「觀濤處」の文字が刻まれています。
江戸時代の1836年(天保7年)に、当時の姫路藩家老であった河合寸翁が永根文峰の書を刻ませたものです。
山頂のすぐ下の南面の崖にあり、横幅10m、高さ3mほどの岩肌に薬研堀されています。
現在は、製作された当時の採石・加工の技術を残す遺構としても評価され、国の史跡に指定されています。

ここからは南方が開け、播磨灘を見渡せたことから、石の宝殿とともに名所として参詣ルートにもなっていました。
以前は、下からも「觀濤處」と掘り込まれた文字が見えていたのですが、今は見えないようです。
おそらく、岩の下の方の木々が大きくなり、目隠しになっているものと推測されます。
上に登れば、眼下に瀬戸内海を一望できるのではと思いますが、登る機会を逸しました。
機会があれば、登ってみたいと思っています。
おそらく、前述の宝殿山からの眺望よりも、左右がもっと開けて見えるものと思います。


県道43号線沿いのコスモス畑


2016/11/12
山陽自動車道の加古川北IC。そこから県道43号線に入ってしばらく走るとコスモス畑が見えました。
県道沿いのいくつかの田んぼがコスモス畑になっているようで、ちょうど、満開になっていました。
耕作ができなくなって放置された田んぼをコスモス畑にしているそうで、後継者問題の1側面です。
草ぼうぼうの状態では、見栄えも悪いし、周りの田んぼへの悪影響もあるので、その対策でしょうか。
この地域だけの問題ではなく、日本国内のあちらこちらで問題になっているようです。
見た目はきれいなコスモス畑ですが、問題の根は深いのでしょうね。









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