石の宝殿及び竜山石採石遺跡
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<生石神社(おうしこじんじゃ)>
兵庫県高砂市にある竜山山地、その1つ、宝殿山の山腹の生石神社のご神体が石の宝殿です。
生石神社は、大穴牟遅命、少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀しています。 奈良時代の8世紀初めに書かれた『播磨国風土記』の大国里の条には、石の宝殿について下記の記述があります。 「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。
伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」 聖徳太子が摂政の頃、物部守屋は死亡していて矛盾していますが、8世紀初期には既に存在していたことになります。 なお、生石神社に関する記述は、養和年間(1181年〜1182年)の播磨国内神名帳の「生石大神」が初見とされます。 ただ、その内容は「天人が石で社を作ろうとした〜」と、石の宝殿は人が造ったものではないとする伝承に変わっています。 生石神社は、1579年(天正7年)に、羽柴秀吉が三木合戦の陣所としての貸与を拒否されたことで焼き討ちにしています。 その際、焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いで西軍の陣鍾して用いられましたが、敗戦で徳川家康に渡っています。 徳川家康は、戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄進しています。その鐘の表面には下記の刻印があるそうです。 応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」
2019/6/26 生石神社の駐車場に車を止め、そこから鳥居をくぐって少し上って行くと本殿が見えてきます。 正面の石段の両横には狛犬が置かれ、右手には生石神社の石碑があります。 本殿に入ると、右手の方で参拝し、初穂料を収めて中央の通路から奥に入ります。 右の写真がその通路ですが、奥の方に石の宝殿が見えています。 2019/6/26 本殿の正面に見える石段ですが、そこからさらに下の方に続いています。 その石段の上には、右の写真のように建屋があり、休息所になっているようです。 この日も、早朝の散歩に来られた方々が数名、この中で談笑されていました。 2019/6/26 この石段の途中に横に行ける県道392号線があるのですが、そのさらに下に県道393号線が走っています。 県道392号線から下を見たのが上の写真ですが、県道393号線沿いに鳥居が建っています。 この鳥居から本殿に真っ直ぐに伸びている階段が、本来の参道のようです。とても急で長い階段です。 <石の宝殿(いしのほうでん)>
石の宝殿は、横6.4m、高さ5.6m、奥行5.6mの直方体に近く、
奥の四角錐型の突起を含めると奥行7.4mになります。 両側面には幅約1.6m、深さ10〜25cmの溝が彫り込まれています。 上面は堆積物や樹木があって見えませんが、おそらく、上面にも続いていると思われています。 なお、この大きさなので推定でしかありませんが、重さは約465tと見積もられています。 この岩の周囲に水がたまり、この巨石が水に浮いているように見えることから「浮石」と呼ばれています。 ただ、この宝殿山には水平方向に亀裂があり、この巨石の下面は亀裂の上に乗っている状態と考えられています。 この亀裂は、岩盤を水平方向に走る節理であり、この亀裂は古くから「大ズワリ」として石工に知られていました。 このように岩盤と繋がっていない状態を、石工は浮いていると言い、その意味でも「浮石」なわけです。 この亀裂に関しては、正面や側面は水面下で見えませんが、背面は水面上に出ていて見ることができます。 <左側面> <背面> <右側面> <正面> 2019/6/26 石の宝殿の周囲には通路が作られていて、ぐるりと回ることができます。 両側面には浅く溝が彫られていて、背面にはピラミッドのような四角錐が彫られています。 正面はのっぺらぼうな平面で、他の面に比べると少し粗い仕上げになっているようです。 この面が底面になるようにするつもりであったという考証の証拠の1つでしょうか。 写真を見てわかる通り、石の宝殿の周囲には水が溜まって、石が浮いているように見えます。 掃除をされていた方の話では、数日前に水を入れ替えたので、そこまで良く見えますとのこと。 何度か来ていますが、アオコのようなものが繁殖して、水面下が見えていたことはありませんでした。 それがこの日は、水底まで良く見えています。それが良く分かるのが右側面の写真で、水中の岩が見えます。 2019/6/26 背面の下部は、弧状に削り込まれ、その下に横に亀裂が走っています。 この亀裂は、この山体に水平方向に走っている節理で、古くから石工に「大ズワリ」と呼ばれています。 つまり、この巨石は、この亀裂によって山体から切り離された状態になるよう作られています。 この巨石の正面下は、水面から2mの深さまで掘り込まれているそうです。 この亀裂や掘り込まれていることも、正面を底面にするという考証の根拠の1つになっているようです。 2019/6/26 生石神社の両脇には、山上公園への登り口があり、岩盤を直接削った石段が続いています。 この石段を上ると、上から石の宝殿を見ることができます。 <右側面> <右奥角> <左側面> <背面> 2019/6/26 上から見た石の宝殿です。上面には石の切れ端などが堆く積もり、多くの木が生えています。 こういったものを見ると、上に何か乗せたくなる人の心理のなせる業でしょうか。 側面同様にきれいな平面に仕上げられていると思われますが、全く見えませんね。 背面の奥にカーブした岸壁が見えていますが、この辺りから掘り込んだようです。 <大正天皇行幸の碑>
2009/12/31 この石の宝殿を取り巻く背後の岩山には、登口から階段で上ることができ、宝殿山(標高65m)に行くことができます。 この宝殿山頂上に行くと、大正天皇行幸の碑「大正天皇行幸之跡」が建っています。 <左端の谷間に姫路城が見える> <中央右側の高みが高御位山> 2009/12/31 周りには立木などの障害物がほとんどないので、宝殿山では360度を見渡せます。 そこから北側に見えるのが播磨富士とも呼ばれる、「高御位山(たかみくらやま)/標高307.2m」です。 天皇の即位儀式に使われる高御座の名が付く山は、全国でもここのみとのことです。 また、天気が良くて空気が澄んでいるときには、北西の山あいに姫路城を見ることができます。 上記の写真では小さくて識別できませんが、望遠レンズで拡大すると目視では確認できました。 2009/12/31 ここからは南方が開け、播磨灘が広く見渡せたます。 手前を横に走っているのは山陽新幹線の線路で、中央右寄りの白く光っている所は法華山谷川の河口です。 その先に横に白く伸びているのが播磨灘で、昔はもっと良く見えていたものと思います。 現在は、海岸が埋め立てられ、多くの工場や電源開発(株)の火力発電所(煙の出ている煙突)などが並んでいます。 中央、法華山谷川の河口の奥に見えているのは上島という灯台のある無人島ですが、島内に真水の井戸があります。 子供の頃、よく舟で連れて行ってもらったのですが、10m以上ある海底の海藻や魚が見えていました。 今は、1m下がほとんど見えないほど水質が悪化してしまっていて、残念です。 <高御位山方面> <瀬戸内海方面> 2019/6/26 左は高御位山方面ですが、上記の冬の景色とは、緑が濃くて趣がずいぶん異なります。 遠くの方は霞んで見えず、姫路城も全く見えませんでした。 右は瀬戸内海方面で、上記の写真の半分程度をアップで撮ったものです。 靄のため、かろうじて上島が確認できる程度ですが、夏の日差しで手前はカラフルに写っています。 2019/10/8 港近くから瀬戸内海(播磨灘)方向を撮影した、台風第15号が日本に上陸する前日に見られた夕焼けです。 上陸したのは関東ですが、関西のこの辺りでも夜半には風雨が強まっていました。 まさに、嵐の前の静けさと言ってよいくらい、不気味に赤く、静かな夕焼けでした。 <竜山石採石遺跡>
この竜山山地辺りで産出する石が、竜山石と呼ばれる流紋岩質溶結凝灰岩です。
1億年ほど前の白亜紀後期、大規模な火山活動で流紋岩が水中で粉砕、堆積したものが再固結したものです。 これが凝灰岩の一種である、ハイアロクラスタイトと呼ばれる稀な岩石です。 竜山石には、淡緑灰色のものが最も多く、次いで淡黄褐色のものがあり、赤色のものもは産出量は極少ないです。 通常は淡緑灰色で青竜山石と呼ばれます。これが風化作用で変化したものが淡黄褐色の黄竜山石と考えられています。 これに対して、赤色のものは、熱水の上昇で色相が変化したものと考えられており、そのため少ないのです。 石質は、軟質ではありますが耐火性に富み、加工が容易なことから古くより石材として利用されてきました。 竜山石の比重は約2.3で、圧縮強度は大谷石(凝灰岩)よりはるかに高く、北木石(花崗岩)と同程度です。 一方、破壊ひずみは大谷石と同程度で、北木石より大きく、均質で粘り気があり、丈夫な岩石です。 石材として加工がしやすいために、古墳時代の石棺の材料などとして古くから利用されています。 その後、姫路城の石垣にも使用され、明治以降の近代建築にも利用されていました。 その代表建築として、皇居吹上御苑や国会議事堂、住友銀行本店ビルなどがあります。 私の実家の家の基礎や石段などにも多用されており、青、黄、赤の竜山石が見られます。 また、青竜山石で作られた臼があり、脚部と一体になっているので、大変重いです。 2019/6/26 宝殿山の山頂付近から加茂山方面を見たものですが、中央に大きな岩肌が見えています。 この切り立った岩壁は、現在も採石が行われている、竜山石の採石場です。 2019/6/26 この辺りの山は、山体全体が竜山石(流紋岩質溶結凝灰岩)で出来ており、古くから採石が行われています。 今から1700年前の古墳時代前期の奈良県メスリ山古墳に使用されていることが分かっているそうです。 昔はかなり手前に山裾があったのでしょうが、今はほぼ山頂付近まで切り崩されています。 手掘りから、ダイナマイトによる発破になって、採石能力が大幅に進んだ結果でしょう。 このように竜山石が豊富に取れるため、この近辺にある採石遺跡は31ヶ所は国の史跡に指定されています。
実家にあった青、黄、赤の3種類の竜山石を以下に紹介させていただきます。
<赤竜山石> <黄竜山石> . 実家の庭に小さな池があった際、その池にかかっていた橋とカエルの置物です。 カエルは赤竜山石を使っていて、橋は黄竜山石を使っていますが、表面が変色して黄色味は薄いです。 <青竜山石と黄竜山石> 左の写真は、基礎石に使っていた青竜山石と黄竜山石です。 右の写真は、今は用済みとなっている漬物石で、上面が青竜山石、下面が黄竜山石になっています。 実際、竜山石はこの石のようにある面を境にして色が変わります。 漬物石ですので、切り崩した使えない端材を使ったのでしょう。でも、これも良いかなと思います。 <青竜山石の石臼> 実家で最も重いと思われる青竜山石製の臼です。今は引退して、納屋の奥に鎮座しています。 表面は、削った後が残って凸凹ですが、搗く面は研磨されていてツルツルです。 最も大きな部分で直径は53cmほどあり、脚の部分と一体で、脚は中実です。 おそらく重量は100kg以上あると思われ、大人2人で担いでもふらふらします。 <觀濤處(かんとうしょ)>
宝殿山の隣にある加茂山、その中腹にある巨岩が観涛処(かんとうしょ)で、「觀濤處」の文字が刻まれています。
江戸時代の1836年(天保7年)に、当時の姫路藩家老であった河合寸翁が永根文峰の書を刻ませたものです。 山頂のすぐ下の南面の崖にあり、横幅10m、高さ3mほどの岩肌に薬研堀されています。 現在は、製作された当時の採石・加工の技術を残す遺構としても評価され、国の史跡に指定されています。
ここは南方が開けて播磨灘を見渡せることから、石の宝殿とともに名所として参詣ルートにもなっていました。
以前は、下からも「觀濤處」と掘り込まれた文字が見えていたのですが、今は見えないようです。 おそらく、岩の下の方の木々が大きくなり、目隠しになっているものと推測されます。 上に登れば、眼下に瀬戸内海を一望できるのではと思いますが、登る機会を逸しました。 機会があれば、上ってみたいと思っています。 おそらく、前述の宝殿山からの眺望よりも、左右がもっと開けて見えるものと思います。 2020/8/6 昨年は上る機会を逸したので、今回は観涛処に上る事にしました。 観涛処に上るには、まず、加茂神社の境内を通ることになります。 その加茂神社の鳥居が出迎えてくれますが、新調されて間もないと思われるものでした。 その鳥居の奥、正面に案内の看板があり、左が観涛処、右が加茂神社となっています。 加茂神社には帰りに寄ることにして、観涛処に向かいました。 ゆるい坂道を上ると、加茂神社の境内の端に出ます。そこからは右手に加茂神社が見えます。 2020/8/6 境内の端からは石段と坂道が続き、上りきると「觀濤處」の文字が見えてきます。 ここまで上るのに20分ほどかかりましたが、整備されているので比較的楽に上れました。 子供の頃、下からこの文字が良く見えていたのですが、今は、前の樹が隠してしまいました。 当然ですが、以前は開けていた前が塞がれて、今は何も見えません。 子供の頃にはよく上っていましたが、その頃は前が開けていて瀬戸内海が一望出来ていました。 ※ 目的は、カブトムシやクワガタなどを捕るためで、死骸があったので、今も捕れるようです。 2020/8/6 観涛処に上りきった所からは「處」の文字が見えるだけです。 正面に行くと先の写真のように「觀濤處」の文字が見えるようになります。 さらに上には竜山石採石遺跡があるようで、その石段の途中から見たのが右側の写真です。 この辺りは竜山石の産地で、山全体が竜山石ですので、文字を掘るには適していたのでしょう。 「處」の左側が空いていますが、ここには小さな文字で何かが彫られています。 2020/8/6 左側の写真は、小さな文字部分を拡大したものですが、何か文字らしきものが確認できます。 右側の写真は、その書き出し(右上)部分をさらに拡大したものです。やっと文字が読めますね。 で、「右觀濤處三大字?〜」と読めます。ただ、「字」の上部が黒くて、字か学かわかりません。 旧字も多々見られ、旧字の知識がほとんどないので読むのは諦めました。 書き出しから推察して、云われのようなものが書かれているものと思います。 竜山石採石遺跡の方に上ってみましたが、石が数ヶ所むき出しになっています。 特に説明版のようなものがなかったので、どれが遺跡なのか良く分かりませんでした。 2020/8/6 加茂神社の境内まで下りてくると、そこに手作りされた石の宝殿の探訪マップがありました。 製作したのは、子供たちかと思ったら、高砂市高齢者大学の方々でした。 このマップによると、観涛処は3×10mの大きさで、文字は縦横1.8mだそうです。 2020/8/6 右の写真は、加茂神社の拝殿です。左の写真はその左側面ですが、奥の本殿が見えています。 2020/8/6 その加茂神社の左手には、左の写真のような石碑が立てられていました。 右手にあるのが右の写真の建屋で、小さな祠を屋根で覆っていました。 左右の石柱には、「伊保崎石工中」「大正九年五月建」と書かれています。 |